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冀州攻略も一(ひと)先(ま)づ片づくと、曹操は第一着手に、袁紹と袁家累代の墳墓を祠(まつ)つた。
その時、彼は亡国の墓に焚香(フンカウ)しながら、
「むかし洛陽で、共に快談を交(ま)じへた頃、袁紹は河北の富強に拠つて、大いに南を図らんといひ、自分は徒手空拳をもつて、天下の新人を糾合し、時代の革新を策さんと云ひ、大いに笑つたこともあつたが、それも今は昔語りとなつてしまつた……」
と述懐して涙を流した。
勝者の手向けた一(イツ)掬(キク)の涙は、またよく敵国の人心を収攬(シウラン)した。人民にはその年の年貢をゆるし、旧藩の文官や賢才は餘さずこれを自己の陣営に用ひ、土木農田の復興に力をそゝがせた。
府堂の出入は日ごと頻繁を加へた。一日(あるひ)、許褚は馬に乗つて東門から入らうとした。すると例の許攸(キヨシウ)がそこに立つてゐて、
「おい許褚。ばかに大きな面(つら)をして通るぢやないか。憚(はゞか)りながらかく云ふ許攸が居なかつたら、君等がこの城門を往来する日は無かつたのだぜ。おれの姿を見たら礼儀ぐらゐして通つたらどうだ」
と、広言を吐いた。
いつぞや曹操が入城する時も、同様な高慢を云ひちらして、諸将が顰蹙(ヒンシユク)してゐたのを思ひ出して、許褚はぐつと持前の疳癪(カンシヤク)を面上にみなぎらせた。
「匹夫つ。わきへ寄れ!」
「なに。おれを匹夫だと」
「小人の小功に誇るほど、小耳にうるさいものはない。往来の妨げなすと蹴ころすぞ」
「蹴ころしてみろ」
「造作もないことだ」
まさかと多寡をくゝつてゐると、許褚はほんとに馬の蹄をあげて、許攸の上へ乗(の)しかゝつて来た。
それのみか、咄嗟(トツサ)に剣を抜いて、許攸の首を斬り飛ばし、すぐ府堂へ行つて、この由を曹操へ訴へた。
曹操は、聞くと、瞑目して、暫く黙つてゐたが、
「彼は、馭(ギヨ)し難い小人にはちがひないが、自分とは幼少からの朋友だ。しかもたしかに功はある者。それを私憤に任せてみだりに斬り殺したのは怪(け)しからん」
と、許褚を叱つて、七日の間、謹慎すべしと命じた。
許褚が退くと、入れ代りに、一名の高士が、礼篤く案内されて来た。河東(カトウ)武城(ブジヤウ)の隠士、崔琰(サイエン)であつた。
先頃から家へ使を派して、曹操は再三この人を迎へてゐたのである。なぜならば、冀州国中の民数戸籍を正すには、どうしても崔琰に諮問しなければ整理ができなかつたからである。
崔琰は乱雑な民簿をよく統計整理して、曹操の軍政経済の資に供へた。
曹操は、彼を別駕従事(ベツガジウジ)の官職に封じ、一面、袁紹の子息や冀州の残党が落ちのびて行つた先の消息も怠らず探らせてゐた。
その後、長男の袁譚は、甘陵(カンリヨウ)、安平(アンヘイ)、渤海(ボツカイ)、河間(カカン)(河北省)などの諸地方を荒(あら)して、追々、兵力をあつめ、三男袁尚が中山(河北省・保定)にゐたのを攻めて、これを奪つた。
袁尚は中山から逃げて、幽州へ去つた。こゝに二男袁煕がゐたので、二弟合流して長兄を防ぎ一面、
「亡父(ちち)の領地を奪(と)り回(かへ)さねば」
と、弓矢を研いで、冀州の曹操を遠く窺つてゐた。
曹操は、それを知つて、試みに袁譚を招いた。袁譚は気味悪がつて、再三の招きにもかゝはらず出向かずにゐた。
口実ができた。——曹操はすぐ断交の書を送つて、大軍をさし向けた。袁譚は怖れて、忽ち中山も捨て平原も捨て、つひに劉表へ使を送つて、
「急を救ひ給はれ」
と、彼の義心を仰いだ。
劉表は、使を返してから、玄徳にこれを計つた。玄徳は、袁兄弟がみな、日ならずして曹操に征伐される運命にある旨を豫言して、
「まあ、見て見ぬ振(ふり)しておいでなさい。他人事(ひとごと)よりは、御自身の国防は大丈夫ですか」
と、注意をうながした。
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次回 → 野に真人あり(三)(2025年6月20日(金)18時配信)