ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 邯鄲(二)
***************************************
曹操は審配の計(はかりごと)を観破してゐたので、数万の飢民が城門から押出されて来ると、すぐ大兵を諸所に伏せて、飢民のあとを尾(つ)いて奔河の如く出て来た城兵を直(たゞち)に挟撃してこれに完全なる殲滅(せんめつ)を加へた。
城頭では合図の篝(かゞり)を、天も焦がすばかり赤々と揚げてゐたが、城門を出た兵はたちまち壕(ほり)を埋める死骸となり、生けるものは、狼狽を極めて城中へ溢れ返つて来た。
「今だぞ。続けや」
曹操は、その図に乗つて、逃げる城兵と一緒に、城門の内へ這(は)入(い)つてしまつた。彼はその際(サイ)盔(かぶと)のいたゞきへ、二(ふた)条(すじ)まで矢をうけて一度は落馬したが、すぐとび乗つて、物ともせず将士の先頭に立つた。
然(しか)し、審配は毅然として、防禦の采配を揮(ふる)つた。為に、外城の門は陥ちたが内城の壁門は依然として固く、さしもの曹操をして
「まだ曽(か)つて、自分もこんな難攻の城に当つたことがない」
と嘆ぜしめた。
「手を換へよう」
彼は、転機に敏(さと)い。——頭を壁にぶつけて押〔しくら〕するやうな愚を避けた。
一夜、彼の兵はまつたく方向を転じて、滏水(フスヰ)の境にある陽平の袁尚を攻めた。
まず辯才の士を遣(や)つて、袁尚の先鋒たる馬延(バエン)と張顗(チヤウギ)のふたりを味方へ誘引した。二将が裏切つたので、袁尚は一たまりもなく敗走した。
濫口(ランコウ)まで退去して、こゝの要害に拠らうと布陣してゐると、四方から焼打ちをうけて、又も進退(シンタイ)谷(きは)まつてしまつたので、袁尚はつひに、降伏して出た。曹操は快くゆるして
「明日(ミヨウニチ)、会はう」
と、全軍の武装を解かせ、降人の主従を一ケ所に止(とゞ)めさせておゐたが、その晩、徐晃と張遼の二将を向けて、袁尚を殺害してしまはうとした。
袁尚は、間一髪の危機を辛くものがれて、中山(チウザン)(河北省・保定)方面へ逃げ走つた。その時(とき)印綬(インジユ)や旗幟(はたじるし)まで捨てゝ行つたので、曹操の将士からよい物笑ひにされた。
一方を片づけると、大挙して、曹操はふたゝび城攻めにかゝつた。こんどは内城の周囲四十里にわたつて漳河(シヤウガ)の水を引き城中を水攻めにした。
さきに袁譚の使として、曹操のところに止(とゞ)まつてゐた辛毘は、袁尚の捨てゝ行つた衣服、印綬、旗じるしなどを、槍の先にあげて、
「城中の人々よ、無益な抗戦はやめて、はやく降伏し給へ」
と、陣前に立つてすゝめた。
審配は、それに答へて、城中に人質としておゐた辛毘の妻子一族四十人ほどを、櫓に引出して首を斬り、一々それを投げ返して云つた。
「汝、この国の恩を忘れたか」
辛毘は悶絶して、兵に抱へられた儘(まゝ)、後陣へひき退(さ)がつた。
けれど彼は、その無念をはらす為、審配の甥にあたる審栄(シンエイ)へ、矢文を送つて、首尾よく内応の約をむすび、たうとう西門の一部を、審栄の手で中から開かせることに成功した。
冀州の本城は、こゝに破れた。滔々(タウ/\)、濁水をこえて、曹軍は内城にこみ入つた。審配は最後まで善戦したが力尽き捕へられた。
曹操は、彼に苦しめられたことの大きかつたゞけに、彼の人物を惜(をし)んで、
「予に仕へぬか」
と、云つた。
すると辛毘が、この者の為に、自分の妻子一族四十何名が殺されてゐる。ねがはくは、この者の首を自分に与へられたいと側(そば)から云つた。
審配は、聞くと、その二人に対して、毅然とかう答へた。
「生きては袁氏の臣、死しては袁氏の鬼(おに)たらんこそ、自分の本望である。阿諛(アユ)軽薄の辛毘ごときと同視されるさへ穢(けが)らはしい。すみやかに斬れツ」
云ひ放ちながら、歩むこと七歩——曹操の眼くばせに、刑刀を払つた武士が飛びかゝる。
「待てツ」
と一喝し、静かに、袁氏の廟地(ベウチ)を拝して後、従容(シヨウヨウ)と首を授けた。
***************************************
次回 → 野(や)に真人(しんじん)あり(一)(2025年6月18日(水)18時配信)