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袁尚は今、鄴城にあつた。
彼の補佐たる審配は、たえず曹軍の動静に心してゐたが、淇水と白溝をつなぐ運河の成るに及んで
「曹操の野望は大きい。彼は近く冀州全土を併呑せんといふ大行動を起すにちがひない」
と、察して、袁尚へ献言し、まづ檄(ゲキ)を武安(ブアン)の尹楷(インカイ)に送つて、毛城(モウジヤウ)に兵を籠め、兵糧をよび寄せ、また沮授の子の沮鵠(ソコウ)といふ者を大将として、邯鄲の野に大布陣を展(ひら)いた。
一方、袁尚自身は、あとに審配をのこして本軍の精鋭をひきゐ、急に平原の袁譚へ攻めかけた。
袁譚から急援を乞ふとの早打をうけると曹操は、許攸に向つて
「これからだと、いつか申したのは、かういふ便りのくる日を待つてゐたのだ」
と、会心の笑みをもらした。
「曹洪は、鄴城へ出よ」
と、一軍を急派しておき、彼自身は毛城を攻めて、大将尹楷を討ち取つた。
「降る者は助けん。いかなる敵であらうと、今日(コンニチ)降(カウ)を乞ふものは、昨日の罪は問はない」
曹操一流の令は、敗走の兵に、蘇生の思ひを与へて、こゝでも大量な捕虜を得た。
大河の軍勢は戦ふ毎(ごと)に、一水又一水を加へて幅を擴(ひろ)げて行つた。
そして、邯鄲の敵とまみえて、大激戦は展開されたが、沮鵠の大布陣も、ついに潰乱(クワイラン)のほかはなかつた。
「鄴城へ。鄴城へ」
逆(さか)捲(ま)く大軍の奔流は、さきにここを囲んでゐた味方の曹洪軍と合して、勢ひいやが上にも振つた。
総がゝりに、城壁を朱(あけ)に染め、焰を投げ、万(バン)鼓(コ)千(セン)喊(カン)、攻め立てること昼夜七日に及んだが、陥ちなかつた。
地の下を掘りすゝんで、一門を突破しようとしたが、それも敵の知るところとなつて、軍兵千八百、地底で生き埋(うづ)めにされてしまつた。
「あゝ、審配は名将かな」
と、攻めあぐみながらも曹操は敵の防戦ぶりに感嘆したほどだつた。
平時の名臣で、乱世の棟梁でもある雄才とは、彼の如きをいふのかも知れない。彼はまた、前線遠く敗れて、帰路を遮断されてゐた袁尚とその軍隊を、怪我なく城中へ迎え入れようといふ難問題にぶつかつて、その成功に苦心してゐた。
その袁尚の軍隊はもう陽平(ヤウヘイ)といふ地点まで来て、通路のひらくのを待つてゐた。その通路は城内から切り開いてやらなければならなかつた。
主簿(シユボ)の李孚(リフ)は、審配へ向つて、かういふ一案を呈した。
「この上、外にある味方の大兵が城内に入ると、忽ち兵糧が尽きます。けれど今、城内には、何の役にも立たない百姓(ヒヤクシヤウ)の老若男女が、何万と籠(こも)つてゐます。それを外へ追ひ出して、曹操へ降らせ、そのあとからすぐ、城兵も奔出します。兵馬が出きつた途端に、城中の柴や薪(まき)を山と積んで、火の柱をあげ、陽平にある袁尚様へ合図をなし、内外呼応して血路を開かれんには、難なくお迎へすることができませう」
「さうだ、その一策しかない」
審配は直(たゞち)に用意にかかつた。そして準備が成ると、城内数万の女子どもや老人を追ひ立て、城門を開いて一度に追ひ出した。
白い〔ぼろ〕布(き)れ、白い旗など、手に/\持つた百姓の老幼は、海嘯(つなみ)のやうに外へ溢れ出した。
そして、曹丞相々々々と、降(カウ)をさけんで、彼の陣地へ雪崩(なだ)れこんで来た。
曹操は、後陣を開かせて
「予の立つ大地には、一人の餓死もさせぬぞ」
と、すべてを容(い)れた。
数ケ所の大釜に粥(かゆ)が煮てあつた。餓鬼(ガキ)振舞ひにあつた飢民の大群は、そばへ矢が飛んできても前方で激戦の喚(おめ)きが起つても、大釜のまはりを離れなかつた。
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次回 → 邯鄲(三)(2025年6月17日(火)18時配信)