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冬十月の風とともに、
「曹操来る。曹軍来る」
の声は、西平の方から枯野を掃いて聞えて来た。
袁尚は愕いて、にはかに平原の囲みを解き、木の葉の如く鄴城へ退却し出した。
袁譚は城を出て、その後(うしろ)備へを追撃した。そして殿軍(しんがり)の大将(タイシヤウ)呂曠(ロクワウ)と呂翔(ロシヤウ)のふたりを宥(なだ)めて、味方に手(て)馴(な)づけ、降人として、曹操の見参に入れた。
「君の武勇は父の名を恥かしめないものだ」
と、曹操は甘いところを賞(ほ)めておいた。
その後また、曹操は、自分の娘を、袁譚に娶(めあは)せた。
都の深窓に育つて、まだ十五、六になつたばかりの花嫁を妻にもつて、袁譚はすつかり喜悦してゐた。
郭図はすこし将来を憂へた。ある時、袁譚に注意して、
「聞けば曹操は呂曠と呂翔のふたりにさへ、列侯位階を与へ、ひどく優待してゐる由です。思ふにこれは、河北の諸将を釣らん為でせう。——またあなたへ自身の愛娘を娶(めあは)せたのも、深い下心あればこそで、その本心は、袁尚を亡ぼして後、冀北全州をわが物とせん遠計にちがいありません。ですから呂曠、呂翔の二人には、あなたから密意を含ませておいて、いつでも変あれば、内応するやうに備へておかなければいけますまい」
「大きにさうだ。併(しか)しいま、曹操は黎陽まで引揚げ、呂曠と呂翔も伴(つ)れて行つてしまつたが、何かよい工夫があるかの」
「二人を将軍に任じ、あなたから将軍の印を刻んでお贈りになつたらいゝでせう」
袁譚は、げにもと頷(うなづ)いた。印匠に命じて早速、二顆の将軍印を造らせた。
〔あどけ〕ない新妻(にひづま)は、彼が掌(て)にしてゐる金印をうしろから覗(のぞ)いて訊ねた。
「あなた、それは何ですの?」
「これかい——」と、袁譚は掌(て)のうへに弄びながら、新妻に笑顔を振向けた。
「使に待たせて、舅御(シウトゴ)の陣地まで贈るものだよ」
「翡翠(ヒスイ)か白珠(ハクギヨク)なら、妾(わたし)の帯の珠に造らせるのに」
「冀州の城へ還れば、そんなものは山ほどあるよ」
「でも、冀州は、袁尚のお城でせう」
「なあに、おれの物さ。父の遺産を、弟のやつが、横(よこ)奪(ど)りしてゐるのだ。いまに舅御が奪り返してくれるだらう」
将軍の金印は、程なく、黎陽にある呂曠、呂翔の兄弟の手に届いた。
二人とも、すでに曹操に心服して、曹操を主と仰いでゐたので、
「袁譚からこんな物を贈つて来ましたが」
と、彼へ披露してしまつた。
曹操は、あざ笑つて、
「贈つて来たものなら、黙つて受けておくがいい。袁譚の肚(はら)は、見え透(す)いてゐる。折がきたら、其(その)方(ハウ)たちに内応させて、この曹操を害さんとする下準備なのだ。……あはゝゝ、浅慮(あさはか)者(もの)がやりさうな事だらう」
この時から曹操も、心ひそかに、いづれ長くは生かしておけぬ者と、袁譚に対する殺意をかためてゐた。
冬のうち戦ひもなく過ぎた。
しかし曹操はこの期間に、数万の人夫を動員して、淇水(キスヰ)の流れをひいて白溝(ハクコウ)へ通じる運河の開鑿(カイサク)を励ましてゐた。
翌、建安九年の春。
運河は開通し、おびたゞしい兵糧船は水に従つて下つて来た。
その船に便乗して都から来た許攸が、曹操に会ふと云つた。
「丞相には、袁譚、袁尚が今に雷にでも搏(う)たれて、自然に死ぬのを待つてゐるのですか」
「はゝゝ、皮肉を申すな、これからだ」
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次回 → 邯鄲(二)(2025年6月16日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。