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「たれか使の適任者はゐるだらうか。曹操に会つてそれを告げるに」
「あります。平原の令、辛毘(シンビ)ならきつといゝでせう」
「辛毘ならわしも知つてゐる。辯舌爽やかな士だ。早速運んでくれい」
袁譚のことばに、郭図はすぐ人を派して辛毘を招いた。
辛毘は欣然と会ひにきて、袁譚から手簡を受けた。袁譚は使の行を旺(さかん)にするため、兵卅騎を附してやつた。
その時、曹操はちやうど、荊州へ攻め入る計画で河南の西平(セイヘイ)(京漢線・西平)まで来たところだつたが、急に陣中へ袁譚の使いが着いたとのことに、威容を正して辛毘を引見した。辛毘は、書簡を呈して、袁譚の降参の旨を申入れた。
「いずれ評議の上で」
と軽くうけて、曹操は、辛毘を陣中にとゞめ、一方諸将をあつめて、
「どうするか」
を議してゐた。
諸説区々に出たが、曹操は衆論のうちから、荀攸(ジユンシウ)の卓見を採用した。荀攸が説くには、
「劉表は四十二州の大国を擁してゐるが、たゞ境を守るだけで、この時代の大変革期に当りながら何ら積極的な策に出たといふ例(ためし)がない。要するに規格の小さい人物で大計のない證拠である。だからそこは一時さし措(お)いても大したことはないでせう。むしろ冀北四ケ国のはうが厄介物です。袁紹没し、敗軍度々ですが、なほ三人の男(ダン)あり、精兵百万、富財山をなしてゐます。もしこれに良い謀士がついて、兄弟の和を計り、よく一体になつて、報復を計つて来たら、もう手〔だて〕を加へやうも勝つ策もありますまい。——今、幸(さいはひ)にも兄弟相争つて、一方の袁譚が打負け、降服を乞うて来たのは、実に天のお味方に幸(さいはひ)し給ふところです。宜しく袁譚の乞ひを容れ、急に袁尚を亡ぼして、その後、変を見てまた袁譚その他の一族を、順順に処置して行けば万(バン)過ちはありますまい」
といふにあつた。
曹操はまた、辛毘を招いて、
「袁譚の降服は、真実か詐(いつは)りか。正直に述べよ」
と、云つて、その面を、炯々(ケイ/\)と見つめた。
辛毘のひとみは、よく彼の凝視にも耐へた。虚言のない我の顔を見よといはぬばかりである。やがて涼やかに答へて云ふ。
「あなたは実に天運に恵まれた御方である。たとひ袁紹は亡くても、冀北の強大は、普通ならここ二代や三代で亡ぶものではありません。併(しか)し、外には兵革に敗れ、内には賢臣みな誅せられ、あげくの果て、世嗣(セイシ)の位置を繞(めぐ)つて骨肉たがひに干戈(カンクワ)を弄び、人民は嘆き、兵は怨嗟(ヱンサ)を放つの有様、天も憎しみ給ふか、昨年来、飢饉(キキン)蝗害(クワウガイ)の災厄も加はつて、いまや昔日の金城湯池も、帯甲百万も、秋風に見舞はれて、明日も知れぬ暗雲の下にをのゝき慄(ふる)へてゐるところです。——こゝを措いて、荊州へ入らんなどは、平路を捨てゝ益なき難路を選ぶも同様です。直(たゞち)に、一路鄴城をお衝(つ)きなさい。おそらくは秋の木の葉を陣風の掃(はら)つて行くやうなものでせう」
「……」
終始、耳を傾けて、曹操は黙然と聞いてゐたが、
「辛毘。何でもつと早く君と会ふ機会が無かつたか恨みに思ふ。君の善言、みな我意に中(あた)る。即時、袁譚に援助し、鄴城へ進むであらう」
「もし、丞相が冀北全土を治められたら、それだけでも天下は震動しませう」
「いや曹操は何も、袁譚の領土まで奪(と)り上げようとは云はんよ」
「御遠慮には及びますまい。天があなたに授けるものなら」
「むゝ、間違へば予の生命を人手に委(ヰ)してしまふかもしれぬ大きな賭け事だからな。遠慮は愚(グ)であらう、すべては行く先の運次第だ。誰(たれ)か知らん乾坤(ケンコン)の意(こゝろ)を」
その夜は、諸大将も加へて盛んなる杯(ハイ)を挙げ、翌日は陣地を払つて、大軍悉(こと/゛\)く冀州へと方向を転じてゐた。
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次回 → 邯鄲(かんたん)(一)(2025年6月14日(土)18時配信)