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「さうだ、内輪喧嘩は、あとの事にしよう」
袁譚は、兵馬を再編制して、ふたゝび黎陽の戦場へ引返した。
そして健気(けなげ)にも、曹軍にぶつかつて、さきの大敗をもり返そうとしたが、兵を損じるばかりだつた。
蓬紀(ママ)は、どうかしてこの際、袁譚、袁尚の兄弟を仲よくさせたいものと、独断で、冀州へ使をやり
「すぐ、援(たす)けにお出でなさい」
と、袁尚の来援を促した。
しかし、袁尚の側にゐる智者の審配が、反対した。——そのまに袁譚はいよ/\苦戦に陥つてしまひ、蓬紀(ママ)が独断で、冀州へ書簡を送つたことも耳にはいつたので、
「怪(け)しからん奴だ」
と、その僭越をなじり、自身、手(て)打(うち)にしてしまつた。そして、
「この上は、ぜひもない。曹操に降(くだ)つて、共に冀州の本城を踏みつぶしてやらう」
と、やぶれかぶれな策を放言した。
冀州の袁尚へ、早馬で密告したものがある。袁尚も愕(おどろ)き、審配も愕然とした。
「そんな無茶をされて堪(たま)るものではない。大挙すぐ援軍にお出向き遊ばせ」
審配のすゝめに、彼と蘇由(ソユウ)の二人を本城にとゞめて、袁尚自身、三万餘騎で駈けつけた。それを知ると袁譚も、
「何も好んで曹操へ降参することはない」
と、意を飜(ひるがへ)して、袁尚の軍と、両翼にわかれ、士気を革(あらた)めて曹軍と対峙した。
そのうち、二男の袁煕や甥の高幹も、一方に陣地を構築し、三面から曹操を防いだのでさしもの曹軍も、やゝ喰ひとめられ、戦ひは翌八年の春にわたつて、まつたく膠着状態に入るかと見えたが、俄然二月の末から、曹軍の猛突撃は開始され、河北軍はなだれを打つて、その一角を委ねてしまつた。
そしてつひに曹軍は、冀州城外三十里まで迫つたが、さすがに北国随一の要害であつた。犠牲を顧みず、惨憺たる猛攻撃をつゞけたが、こゝの堅城鉄壁は揺るぎもしないのである。
「これは胡桃(くるみ)の殻(から)を手で叩いてゐるやうなものでせう。外殻は何分にも堅固です。けれど中実(なかみ)は虫が蝕(く)つてゐるやうです。兄弟(ケイテイ)相争ひ、諸臣の心は分離してゐる。やがてその変が現れるまで、こゝは兵をひいて、悠々待つべきではありますまいか」
これは曹操へ向つて、郭嘉がすすめた言葉であつた。曹操も、実(げ)にもと頷いて、急に総引揚げを断行した。
もちろん黎陽とか官渡とかの要地には、強力な部隊を、再征の日に備へて残して行つたことはいふ迄(まで)もない。
冀州城は、ほつと、息づいた。——が、小康的な平時に返ると、忽ち、国主問題をめぐつて、内部の葛藤が始まつた。
袁譚はいまなほ、城外の守備にあつたので、
「城へ入れろ」
「入るをゆるさん」
と、兄弟喧嘩だつた。
すると一日、その袁譚から、急に折れて、酒宴の迎へが来た。兄の方からさう折れて出られると、拒むこともできず、袁尚が迷つてゐると、謀士審配が教へた。
「あなたを招いて、油幕に火を放ち、焼き殺す計であると——或る者から〔ちら〕と聞きました。お出向き遊ばすなら、充分兵備をしておいでなさい」
袁尚は、五万の兵をつれて、城門からそこへ出向いた。袁譚は、さう知ると、
「面倒だぶつかれ」
と、急に、鼓(つゞみ)を打鳴らして、戦ひを挑んだ。
陣頭で、兄弟が顔を合せた。一方が、兄に刃向ひするかと罵れば、一方は、父を殺したのは汝だなどゝ、醜い口争ひをしたあげく、遂に、剣を抜いて、兄弟火華を散らすに至つた。
袁譚は敗れて、平原へ逃げた。袁尚はさらに兵力を加へ、包囲して糧道を断つた。
「どうしよう、郭図」
「一時、曹操へ、降服を申入れ、曹操が冀州を衝(つ)いたら、袁尚はあわてゝ帰るにちがひありません。そこを追ひ討ちすれば、難なく、囲みは解け、しかも大捷(タイセフ)を得ること、火を見るより明(あきら)かでせう」
郭図は袁譚へさう奨(すゝ)めた。
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次回 → 自壊闘争(三)(2025年6月13日(金)18時配信)