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前回はこちら → 泥魚(でいぎよ)(四)
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玄徳が、その一族と共に、劉表を頼つて、荊州へ赴いたのは、建安六年の秋九月であつた。
劉表は郭外三十里まで出迎へ、互ひに疎遠の情を叙(の)べてから、
「この後は、長く唇歯の好誼(よしみ)をふかめ、共々、漢室の宗親たる範を天下に垂れん」
と、城中へ迎へて、好遇(カウグウ)頗(すこぶ)る丁重であつた。
この事は早くも、曹操の耳に聞えた。
曹操はまだ汝南から引揚げる途中であつたが、その情報に接すると、愕然として、
「しまつた。彼を荊州へ追ひこんだのは、籠の魚をつかみ損ねて、水沢(スヰタク)へ逃がしたやうなものだ。今のうちに——」
と、直(たゞち)に、軍の方向を転じて、荊州へ攻め入らうとしたが、諸将はひとしく、
「今は、利(リ)非(あら)ずです。来年、陽春を待つて、攻め入つても遅くありますまい」
と、一致して意見したので、彼も断念して、そのまゝ許都へ還つてしまつた。
——が、翌年になると、四囲の情勢は、また微妙な変化を呈して来た。建安七年の春早々、許都の軍政はしきりに多忙であつた。
荊州方面への積極策は、一時見合せとなつて、たゞ夏侯惇、満寵の二将が抑へに下つた。
曹仁、荀彧には、府内の留守が命ぜられ、残る軍はこぞつて、
「北国へ。——官渡へ」
と、冀北(キホク)征伐の征旅が、去年にも倍加した装備を以(もつ)て、こゝに再び企図(もくろ)まれたのであつた。
冀州の動揺はいふ迄(まで)もない。
「こゝまで、敵を入れては、勝目はないぞ」
と、青州、幽州、幷州の軍馬は、諸道から黎陽へ出て、防戦に努めた。
けれど曹軍の怒濤は、大河を決するやうに、いたる所で北国勢を撃破し、駸々(シン/\)と冀州の領土へ蝕(く)ひこんで来た。
袁譚、袁煕、袁尚などの若殿輩(わかとのばら)も、めい/\手痛い敗北を負つて、続々、冀州へ逃げもどつて来たので、本城の混乱はいふまでもない。
のみならず、袁紹の未亡人劉氏は、まだ良人の喪(も)も発しないうちに、日頃の嫉妬を、この時にあらはして、袁紹が生前に寵愛してゐた五人の側女(そばめ)を、武士にいひつけて、後園に追ひ出し、そここゝの木陰で刺し殺してしまつた。
「死んでから後も、九泉(キウセン)の下で、魂と魂とがふたゝび巡り合ふことがないやうに」
といふ思想から、その屍(かばね)まで寸断して、ひとつ所に埋(い)けさせなかつた。
こんな所へ、三男袁尚が先に逃げ帰つて来たので、劉夫人は、
「この際、そなたが率先して父の喪を発し、御遺書をうけたと称(とな)へて、冀州城の太守におすわりなさい。ほかの子息が主君になつたら、この母はどこに身を置かうぞ」
と、すゝめた。
長男の袁譚が、後から城外まで引揚げて来ると、袁紹の喪が発せられ、同時に三男の袁尚から大将蓬紀(ママ)を使として、陣中へ向けてよこした。
蓬紀(ママ)は印を捧げて、
「あなたを、車騎将軍に封ずといふお旨です」
と、伝へた。
袁譚は、怒つて、
「何だ、これは?」
「車騎将軍の印です」
「ばかにするな。おれは袁尚の兄だぞ。弟から兄へ官爵を授けるなんて法があるか」
「御三男は、すでに冀州の君主に立たれました。先君の御遺言を奉じて」
「遺書を見せろ」
「劉夫人の御手にあつて、臣等の窺ひ知るところではありません」
「よし。城中へ行つて、劉氏に会ひ、しかと談じなければならん」
郭図は、急に諫めて、彼の剣の鞘(さや)をつかんだ。
「いまは、兄弟で争つてゐる時ではありません。何よりも、敵は曹操です。その問題は、曹操を破つてから後におしなさい。——後にしても、いくらだつて取る処置はありませう」
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次回 → 自壊闘争(二)(2025年6月12日(木)18時配信)