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「勝敗は兵家のつね。人の成敗みな時ありです。……時来れば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。長い人生に処するには、得意な時にも得意に驕(をご)らず、絶望の淵(ふち)にのぞんでも滅失に墜ち入らず、——そこに動ぜず溺れず、出所進退、悠々たることが、難かしいのではございますまいか」
関羽は、しきりと、言葉をつゞけた。ひとり玄徳の落胆を励ますばかりでなく、敗滅の底にある将士に対して、こゝが大事と思うからであつた。
彼はふと、乾き上がつてゐる河洲(かはす)の砂上を見まはして、
「——ごらんなさい」と、指さして云つた。
「そこらの汀に、泥にくるまれた蓑虫(みのむし)のやうなものが無数に見えませう。虫でも藻草(もぐさ)でもありません。泥魚(でい)といふ魚です。この魚(うを)は天然によく処世を心得てゐて、旱天(ひでり)がつゞき、河水が乾(ひ)あがると、あのやうに頭から尾まで、すべて身を泥にくるんで、幾日でも転がつた儘(まゝ)でゐる。餌を漁(あさ)る鳥にも啄(ついば)まれず、水の干(ひ)た河床(かはどこ)でもがき廻ることもありません。——そして、自然に身の近くに、やがて浸浸と、水が誘ひに来れば、たちまち泥の皮を剝(ぬ)いで、ちろ/\と泳ぎ出すのです。ひとたび泳ぎ出すときは、彼等の世界には俄然(がぜん)満々たる大江あり、雨水ありで、自由自在を極め、もはや窮することを知りません。……実におもしろい魚(うを)ではありませんか。泥魚(でい)と人生。——人間にも幾たびか泥魚(でい)の隠忍に倣ふべき時期があると思ふのでございまする」
関羽の話に人々は現実の敗戦を見直した。そこに人生の妙通を悟つた。
孫乾(ソンケン)はにはかに云ひ出した。
「荊州の地は、こゝから遠くないし、太守劉表は九郡を治めて、当世の英雄たり、一方の重鎮たる存在です。——ひとまづ、わが君には荊州へおいであつて、彼をお頼み遊ばしては如何ですか。劉表は喜んでかならずお扶(たす)けすると存じますが」
玄徳は、考へてゐたが、
「なるほど、荊州は江漢の地に面し、東は呉会(ゴクワイ)に連なり、西は巴蜀(ハシヨク)へ通じ、南は海隅(カイグウ)に接し、兵糧は山のごとく積み、精兵数十万と聞く。殊(こと)に劉表は漢室の宗親でもあるから、同じ漢の苗裔(ベウヱイ)たる自分とは遠縁の間がらでもあるが……絶えて音信を交はしたこともないのに、急に、この敗戦の身と一族をひき連れて行つてどうであらうか?」
と、先方の思惑を憚(はゞか)つて、ためらふ容子だつた。孫乾は進んで自分がまづ荊州へ行かんと云ひ、一同の賛意を得ると、すぐその場から馬をとばして使に立つた。
劉表は、彼を城内に引いて、親しく玄徳の境遇を聞きとると、即座に、快諾してかう云つた。
「漢室の系図によれば、この劉表と劉備とは、共に宗親のあひだがらであり、遠いながら彼は予の義弟にあたる者である。いま九郡十一州の主たる自分が、一人の宗親を見捨てゝ扶けなかつたとあれば、天下の人が笑ふだらう——すぐ荊州へ参られよと、伝へてくれい」
すると、侍側の大将、蔡瑁(サイバウ)がそばから拒んだ。
「無用々々。その儀は、お見合わせがよいでせう。——玄徳は義を知らず恩を忘れる男です。はじめは呂布と親しみ、のち曹操に仕へ、近頃また、袁紹に拠つて、みな裏切つてゐます。それを以てその人を知るべしで、もし玄徳を当城に迎へたら、曹操が怒つて、荊州へ攻め入つて来る惧(おそ)れもありませう」
聞くと、孫乾は色を正して、
「呂布は、人道の上に於(おい)て、正しき人であつたか。曹操は真の忠臣か。袁紹は、世を救ふに足る英雄か。御辺は何故、ことばを歪曲して、無用な讒言(ザンゲン)をなさるか」
と、つめ寄つた。
劉表も叱りつけて、
「要らざるさし出口はひかへろ」
と一喝したので、蔡瑁も顔(かほ)赧(あか)らめて黙つてしまつた。
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次回 → 自壊闘争(一)(2025年6月11日(水)18時配信)