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途中、しかも久しぶりに都へかえる凱旋の途中だつたが——曹操はたちどころに方針を決し、
「曹洪は、黄河にのこれ。予は、これより直(たゞち)に、汝南へむかつて、玄徳の首を、この鞍に結ひつけて、都へ還らう」
と、云つた。
一部をとゞめたほか、全軍すべて道を更(か)へた。彼の用兵は、かくの如く、いつも滞ることがない。
すでに、汝南を発してゐた玄徳は、
「よもや?」
と、思つてゐた曹操の大軍が、餘りにも迅く、南下して来たばかりか、逆寄せの勢ひで、攻めて来たとの報(しらせ)に、
「はや、穰山(ジヤウザン)(河南省)の地の利を占めん」
と、備へるに狼狽したほどであつた。
劉辟、龔都の兵をあはせ、布陣五十餘里、先鋒は三段にわかれて備へを立てた。
東南(たつみ)の陣、関羽。
西南(ひつじさる)には張飛。
南の中核に玄徳、脇備へとして趙雲の一隊が旗をひるがへしてゐた。
地平線の彼方から、真黒に野を捲いて来た大軍は、穰山を距(さ)ること二、三里、一夜に陣を八卦の象(かたち)に備へてゐた。
夜明と共に、弦鳴鼓雷(ゲンメイコライ)、両軍は戦端を開始してゐたが、やがて中軍を割つて、曹操自身すがたを現し、
「玄徳に一言云はん」
と、告げた。
玄徳も、旗をすゝめ、駒を立てて、彼を見た。
曹操は大声叱咤して云つた。
「以前の恩義をわすれたか。唾棄すべき亡恩の徒め。どの面さげて曹操に矢を射るか」
玄徳は、にこと笑ひ、
「君は、漢の丞相といふが帝の御意でないことは明(あきら)かだ。故に、君がみづから恩を与へたといふのは不当であらう。記憶せよ、玄徳は漢室の宗親であることを」
「だまれ、予は、天子の勅をうけて、叛(そむ)くを討ち、紊(みだ)すを懲(こら)す。汝もまた、その類でなくて何だ」
「いつはりを吐き給ふな。君ごとき覇道の奸雄に、何で天子が勅を降さう。まことの詔詞(みことのり)とは、こゝにあるものだ」
と、かねて都にゐた時、董国舅へ賜はつた密書の写しを取(とり)出し、玄徳は馬上のまゝ声高らかに読みあげた。
その沈着な容子と、朗々たる音吐(オント)に、一瞬敵味方とも耳をすましたが、終ると共に、玄徳の兵が、わあつと正義の軍(いくさ)たる誇りを鯨波(ときのこゑ)としてあげた。
いつも、朝廷の軍たることを、真向(まつかう)に宣言して臨む曹操の戦ひが、この日初めて、位置を更(か)へて彼に官軍の名を取られたやうな形になつた。
彼が憤怒したこと、いふまでもない。鞍つぼを叩いて、
「偽詔をもつて、みだりに朝廷の御名(みな)を騙(かた)る不届者、あの玄徳めを引摑んで来いつ」
眦(まなじり)を裂いて命じた。
「おうつ」
と、吠えて、許褚がすすむ。
迎へたのは、趙雲。
戟(げき)、剣、馬蹄から立つ土けむりの中に、戞々(カツ/\)と火を発し、閃々とひらめき合ふ。
勝負——つくべくも見えなかつた。
関羽の一陣、横から攻めかゝる。
張飛の手勢も、猛然、声をあはせて、側面を衝(つ)いた。
曹操の八卦陣は、三方から揉みたてられて、つひに五六十里も退却してしまつた。
「幸先(さいさき)はよいぞ」
その夜、玄徳がよろこびを見せると、関羽は首を振つて云つた。
「計の多い曹操の事です。まだまだ歓ぶところには行きません」
「いや、彼の退却は、長途の疲れを、無理して来た為で、計ではなからう」
「では、試みに、趙雲を出して、挑んでごらんなさい」
次の日、趙雲が進んで、挑戦してみたが、曹操の陣は、啞の如く、鳴をしづめたきり動かない。
——七日、十日と過ぎても、一向戦意を示さなかつた。
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次回 → 泥魚(二)(2025年6月7日(土)18時配信)