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逃げては迫られ、止まればすぐ追はれ、敗走行の夜昼ほど、苦しいものはないだらう。
しかも一万の残兵も、その三分の一は、深傷(ふかで)や浅傷(あさで)を負ひ、続々、落伍してしまふ。
「あつ?父上、どうなされたのですか」
遅れがちの父の袁紹をふと振返つて、三男の袁尚が、仰天しながら駒を寄せた。
「兄さん!大変だつ、待つてくれい」
ふたゝび彼は大声で、先へ走つてゆく二人の兄を呼びとめた。
袁譚、袁煕の二子も、何事かとすぐ父のそばへ引返して来た。全軍も、混乱のまゝ、潰走を止(とゞ)めた。
老齢な袁紹は、日夜、数百里を逃げつゞけて来たため、心身疲労の極に達し、馬のたてがみへ俯(うつ)伏したまゝ、いつか、口中から血を吐いてゐたのであつた。
「父上つ」
「大将軍つ」
「お気をしつかり持つて下さい」
三人の子と、旗下の諸将は、彼の身を抱き降ろして懸命に手当を加へた。
袁紹は、蒼白な面(おもて)をあげ、唇の血を三男に拭かせながら、
「案じるな。……何の」
と、強ひて眸をみはつた。
すると、遙(はる)か先に、何も知らず駆けてゐた前隊が、急に、雪崩(なだれ)を打つて、戻つて来た。
強力な敵の潜行部隊が、早くも先へ迂回して、道を遮断し、これへ来るといふのである。
まだ充分意識もつかない父を、ふたゝび馬の背に乗せて、長男袁譚が抱きかゝへ、それから数十里を横道へ、逃げに逃げた。
「……だめだ。苦しい。……降ろしてくれい」
袁譚の膝で、袁紹のかすかな声がした。いつか白い黄昏(たそがれ)の月がある。兄弟と将士は、森の木陰に、真黒に寄り合つた。
草の上に、戦袍(センパウ)を敷き、袁紹は仰向けに寝かされた。——にぶい眸に、夕日が映つてゐる。
「袁尚。袁譚も……袁煕もをるか。わしの天命も、尽きたらしい。そちたち兄弟は、本国に還り、兵をとゝのへて、ふたゝび、曹操と雌雄を決せよ。……ち、ちかつて、父の怨みを散ぜよ。……いゝか、兄弟共」
言ひ終ると、かつと、黒血を吐いて、四肢を突張つた。最期の躍動であつた。
兄弟は号泣しながら、遺骸を馬の背に奉じて、なほ本国へ急いだ。そして冀州城へ入ると、袁紹は陣中に病んで還つたと触れ、三男袁尚が、仮に執政となり、審配(シンパイ)其(その)他(タ)の重臣がそれを扶(たす)けた。
次男の袁煕は幽州へ、嫡子袁譚は青州に、それ/゛\守るところへ還り、甥の高幹も、
「かならず再起を」
と約して、一(ひと)先(ま)づ幷州へと引揚げた。
——かくて大捷(タイセフ)を得た曹操は、思ひのまま冀州の領内へ進出して来たが、
「いまは稲の熟した時、田を荒らし、百姓の業(わざ)を妨げるのは、如何(いかゞ)なものでせう。殊(こと)に、味方も長途に疲れ、後方の聯絡、兵糧の補給は、いよ/\困難を加へますし、袁紹病むといへども、審配、蓬紀(ママ)などの名将もをること、これ以上の深入りは、多分に危険も伴ふものと思慮せねばなりません」
と、諸将みな諫(いさ)めた。
曹操は釈然と容れて、
「百姓は国の本だ。——この田もやがて自分のものだ。憐れまないで何としよう」
一転、兵馬を回(かへ)して、都へさして来る途中、忽ち相次いで来る早馬の使が、かう告げた。
「いま、汝南にある劉玄徳が、劉辟、龔都などを語らつて、数万の勢をあつめ、都の虚をうかゞつて、にはかに攻め上らんとするかの如く、動向、容易ならぬものが見えまする!」
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次回 → 泥魚(でいぎよ)(一)(2025年6月6日(金)18時配信)