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我子の武勇を眼(ま)のあたり見て、袁紹も大いに意を強めた。
その装備に於ても、兵数の点でも、依然、河北軍は圧倒的な優位を保持してゐた。接戦第一日も、二日目も、更にその以後も、河北軍は連戦連捷の勢ひだつた。
曹操は敗色日増しに加はる味方を見て、
「程昱、何としたものだらう」と傍(かたは)らの大将に諮つた。
程昱は、この時、十面埋伏の計をすゝめたと云はれてゐる。
曹操の軍は、にはかに退却を開始し、やがて黄河をうしろに、布陣を改めた。
そして部隊を十に分け、各々、緊密な聯絡をもつて、迫り来る敵の大軍を待つてゐた。
袁紹はしきりに物見を放ちながら、三十万の大軍を徐々に進ませて来た。
——敵、背水の陣を布(し)く!
と聞いて、河北軍も、〔うかつ〕には寄らなかつたが、一夜、曹操の中軍前衛隊の許褚が、闇に乗じて、味方を奇襲して来たので、
「それツ、包囲せよ」
と、五(ゴ)寨(サイ)の備へは、こゝに初めて行動を起して、許褚の一隊を捕捉せんものと、引(ひつ)包(つゝ)んで、天地を揺(ゆるが)した。
許褚は、豫(かね)て計(はかりごと)のあることなので、戦つては逃げ、戦つては逃げ、遂に黄河の畔(ほとり)まで、敵を誘ひ、敵の五寨の備へを或る程度まで変形させることに成功した。
「うしろは黄河だ。背水の敵は死物狂ひにならう。深(ふか)入(いり)すな」
と袁紹(ヱンセウ)父子(おやこ)が、その本陣から前線の将士へ、伝騎を飛ばした時は、すでに彼等の司令本部も、五寨の中核からだいぶ位置を移して、前後の聯絡はかなり変貌してゐたのであつた。
突如として、方二十里にわたる野や丘や水辺(スヰヘン)から、豫(かね)て曹操の配置しておいた十隊の兵が、鯨波(ときのこゑ)をあげて起つた。
「大丈夫だ」
「何の、躁(さは)ぐことはない」
袁紹父子は、最後に至る迄(まで)総司令部と敵とのあひだに、分厚な味方があり、距離があることを信じてゐた。
——何ぞ知らん。彼の信じてゐた五寨の備へは、すでに間隙だらけであつたのである。
またゝく間に、味方ならぬ敵の喊声(カンセイ)はこゝに近づいてゐた。しかも、十方の闇からである。
「右翼の第一隊、夏侯惇」
「二隊の大将、張遼」
「第三を承るもの李典」
「第四隊、楽進なり」
「第五にあるは、夏侯淵」
「——左備へ。第一隊曹洪」
「二隊、張郃。三、徐晃。四、于禁(うきん)。五、高攬(ママ)」
と、いふやうな声々が潮(しほ)のやうに耳近く聞かれた。
「すは。急変」
と、総司令部はあわてだした。
どうしてかう敵が急迫して来たのか、三十万の味方が、いつたいどこで戦つてゐるのか。皆目、知れないし、考へてゐる遑(いとま)など固(もと)よりなかつた。
袁紹は、三人の子息と共に、夢中で逃げ出してゐた。
うしろに続く旗下の将士も、途中、敵の徐晃や于禁の兵に挟(はさま)れて、散々に討死を遂げてしまつた。
いや彼等(かれら)父子(おやこ)の身も、いくたびか包まれて、雑兵の熊手にかけられるところだつた。
馬を乗り捨て、また拾ひ乗ること四(よ)度(たび)、辛(から)くも蒼亭(サウテイ)まで逃げ走つて来て、味方の残存部隊に合し、ほつとする間もなく、こゝへも曹洪、夏侯惇の疾風隊が、電雷のごとく突撃して来た。
次男の袁煕は、ここで深傷(ふかで)を負ひ、甥の高幹も、重傷を負つた。
夜もすがら、逃げに逃げて、百餘里を走りつゞけ——翌る日、全軍をかぞへてゐると、何と一万にも足らなかつた。
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次回 → 十面埋伏(五)(2025年6月5日(木)18時配信)