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本国に帰つてからの袁紹は、冀州城内の殿閣にふかく籠(こも)つて、怏憂(ワウイウ)、煩憂(ハンイウ)の日を送つてゐた。
衰退が見えてくると、大国の悩みは深刻である。
外戦の傷手(いたで)も大きいが、内政の患(わずら)ひはもつと深い。
「あなたがお丈夫なうちに、どうか世嗣(よつぎ)を定めてください。それを先に遊ばしておけば、河北の諸州も一体となつて、きつと御方針が進めよくなりませう」
劉夫人はしきりにそれを説いた。——が、実は自分の生んだ子の三男袁尚を、河北の世嗣に立てたいのであつた。
「わしも疲れた。……心身ともにつかれたよ。近いうちに世嗣を決めよう」
つねに劉夫人からよい事だけを聞かされてゐるので、彼の意中にも、袁尚が第一に考へられてゐた。
だが、長男の袁譚は、青州にゐるし、次男の袁煕(エンキ)は、幽州を守つてゐる。
その二人をさしおいて、三男の袁尚を立てたら、どういふことになるだらうか?
袁紹はそこに迷ひを持つたのであつた。つねに側において可愛がつてゐる袁尚だけに、悩むまでもない明白な問題なのに、彼は迷ひ苦しんだ。
重臣たちの意向をさぐると、逢紀、審配のふたりは、袁尚を擁立したがつてゐるし、郭図、辛評(シンヘウ)の二名は、正統派といふか、嫡子(チヤクシ)袁譚を立てようとしてゐるらしい。
だが、自分から自分の望みを仄(ほの)めかしたら、さういふ連中も、一致して袁尚を支持してくれるかも知れぬ——と考へたらしく袁紹は或る日、四大将を翠眉廟(スヰビベウ)の内に招いて、
「時に、わしもはや老齢だし、諸州に男子を分けて、それ/゛\適する地方を守らせてあるが、宗家の世嗣としては、もつとも三男袁尚がその質と思うてゐる。——で、近く袁尚を河北の新君主に立てようと考へてをるが、そち達はどう思ふな?」
と、意見を問ひながら暗に自分の望みを打明けてみた。
すると、誰よりも先に郭図が口をひらいて、
「これは思ひもよらぬおことばです、古(いにしへ)から兄をおいて弟を立て、宗家の安泰を得たためしはありますまい。これを行へば乱兆たちまち河北の全土に起つて、人民の安からぬ思ひをするは火を睹(み)るよりもあきらかです。しかも今一方には、曹操の熄(や)まざる侵略のあるものを。……どうか、家政を紊(みだ)し給はず、一意、国防にお心を傾け給はるよう、痛涙、御諫言申しあげまする」
と、面(おもて)を冒(おか)していつた。
沮授や田豊などゝいふ忠良の臣を失つて、そのことばが時折、悔いの底に思ひ出されてゐたところなので、袁紹もこんどは、
「左様か……。む、む」
と、気まづい顔いろながらも、反省して、考へ直してゐるふうであつた。
すると、それから数日の間に。
幷州(ヘイシウ)にゐる甥の高幹(カウカン)が、官渡の大敗と聞いて、軍勢五万をひきいて上つて来たところへ、長男の袁譚も、青州から五万餘騎をとゝのへて駈けつけ、次男袁煕もまた前後して、六万の大兵をひつさげ、城外に着いて、野営を布(し)いた。
ために冀州城下の内外は、それらの味方の旗で埋められたので、一時は気を落してゐた袁紹も大いに歓んで、
「やはり何かの場合には、気づよいものは子ども等や肉親である。かく、新手の兵馬がわれに備はるからには、長途を疲れて来る曹操の如きは何ものでもない」
と、安心をとり戻してゐた。
一方、曹操の軍勢は、どう動いてゐるかと、諸所の情報をあつめてみると、さすがに急な深入りもせず、大捷をおさめたのち、彼はひとまづ黄河の線に全軍をあつめおもむろに装備を改めながら兵馬に休養をとらせてゐるらしかつた。
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次回 → 十面埋伏(三)(2025年6月3日(火)18時配信)