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前回はこちら → 逆巻く黄河(五)
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鄴都、黎陽、酸棗の三方面へ向つて、しきりに曹操の兵がうごいてゆくと聞いて、袁紹は、
「すは、また何か、彼が奇手を打つな」
と、大将(タイシヤウ)辛明(シンメイ)に、三万騎をつけて、黎陽へ向はせ、三男(サンナン)袁尚(エンシヤウ)にも、五万騎をさづけて、鄴都へ急派し、さらに酸棗へも大兵を分けた。
当然、彼の本陣は、目立つて手薄になつた。探り知つた曹操は、
「思う〔つぼ〕に」
と、〔ほくそ〕笑んで、一時、三方へ散らした各部隊と聯絡をとり、日と刻を諜(しめ)し合(あは)せて、袁紹の本陣へ急迫した。
黄河は逆巻き、大山は崩れ、ふたゝび天地開闢(テンチカイビヤク)前の晦冥(クワイメイ)が来たかと思はれた。袁紹は甲(よろひ)を着るともなく、単衣帛髪(タンイキンハツ)のまゝ馬に飛び乗つて逃げた。
あとには、たゞ一人、嫡子(チヤクシ)の袁譚(エンタン)が従(つ)いて行つたのみである。
それと知つて、
「われぞ、手(て)擒(どり)に!」
と張遼、許褚、徐晃、于禁などの輩(ともがら)が争つて追ひかけたが、黄河の支流で見失つてしまつた。
一すじや二すじの河流なら見当もつくが、広茫の大野(タイヤ)に、沼やら湖(コ)やら、またそれを繫(つな)ぐ無数の流れやらあつて、何(ど)つ方(ち)へ渡つて行つたか——水に惑はされてしまつたからであつた。
なほ諸所を捜索中、捕虜とした一将校の自白によると、
「嫡子袁譚のほかに、約八百ほどの旗下(はたもと)の将士が従(つ)いて、北方の沼を逃げ渡られた」
と、いふ事だつた。
そのうちに集結の角笛(つのぶえ)が聞えたので、一同むなしく引揚げた。この日の戦果は豫想外に大きかつた。敵の遺棄死体は八万と数へられ、袁紹の本陣附近から彼の捨てて行つた食料、重大の図書、金銀絹帛の類(たぐひ)など続々発見されたし、そのほか分捕りの武器馬匹など莫大な額にのぼつた。
また、それらの戦利品中には、袁紹の坐側にあつた物らしい金革(キンカク)の大きな文櫃(ふみびつ)などもあつた。曹操が開いてみると、幾束にもなつた書簡が出て来た。
思ひがけない朝廷の官人の名がある。現に曹操のそばにゐて忠勤顔してゐる大将の名も見出された。そのほか、日頃、袁紹に内通してゐた者の手紙は、すべて彼の眼に見られてしまつた。
「実に呆(あき)れたもの、この書簡を證拠に、この際、これらの二心ある醜類をことごとく軍律に照(てら)して断罪に処すべきでせう」
荀攸(ジユンシウ)がそばから云ふと、曹操はにや/\笑つて、
「いや待て。——袁紹の勢ひが隆々としてゐた一頃には、この曹操でさへ、如何にせんかと、惑つたものだ。いはんや他人をや」
彼は、眼のまへで、革櫃(かはびつ)ぐるみ書簡もすべて、焼き捨てさせてしまつた。
また、袁紹の臣沮授は、獄につながれてゐたので、当然、逃げることも何(ど)うすることも出来ず、やがて発見されて、曹操の前に曳(ひ)かれてきた。曹操は見るとすぐ、
「おう、君とは、一面の交(まじ)はりがある」
と、自身で縄を解いてやつたが、沮授は声をあげて、その情(なさけ)を拒んだ。
「わしが捕はれたのは、やむを得ず捕はれたのだ。降参ではないぞ。早く首を斬れ」
しかし曹操は、飽(あく)までその人物を惜しんで陣中におき、篤くもてなしておいた。ところが、沮授は隙を見て、兵の馬を盗み出し、それに乗つて逃げ出さうとした。
「…………あつ」
沮授が、鞍につかまつた刹那、一本の矢が飛んで来て、沮授の背から胸まで射ぬいてしまつた。曹操は自分のした事を、
「噫(あゝ)。われつひに、忠義の人を殺せり」
と悲しんで、手づから遺骸を祭り、黄河のほとりに墳(つか)を築いて、それに「忠烈(チユウレツ)沮君(ソクン)之(の)墓(はか)」と碑に刻ませた。
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次回 → 十面埋伏(一)(2025年5月31日(土)18時配信)