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袁紹の臣沮授は、主君袁紹に諫言して、却(かへ)つて彼の怒りを購(か)ひ、軍の監獄に投じられてゐたが、その夜、獄中に独坐して星を見てゐるうちに、
「……噫(あゝ)。これは凡事(たゞごと)ではない」
と、大きく呟(つぶや)いた。
彼の独り言を怪(あやし)んで、典獄がそのわけを問ふと、沮授は云つた。
「こよひは星の光(ひか)りいとほがらかなのに、いま天文を仰ぎ見るに、太白星(タイハクセイ)をつらぬいて、一道の妖霧が懸(かゝ)つてゐる。これ兵変のある凶兆である」
そして彼は、典獄を通して、主君の袁紹に会ふことを頻(しき)りに——しかも、火急に嘆願したので、折から酒をのんでゐた袁紹は、何事かと、面前に曳(ひ)かせて見た。
沮授は、信念をもつて、
「こよひから明け方までの間に、かならず敵の奇襲が実行されませう。察するに、味方の兵糧は烏巣にありますから、智略のある敵なら屹度(キツト)そこを脅(おび)やかさうとするに違ひありません。すぐさま猛将勇卒を急派して、山間の通路にそなへ、彼の計を反覆して、凶を吉とする応変のお手配こそ必要かと存ぜられます」
と、進言した。
袁紹は聞くと、苦りきつて、
「獄中にある身をもつて、まだ猥(みだ)りに舌をうごかし、士気を惑はさうとするか。賢才を衒(てら)ふ憎むべき囚人め。退(さ)がれつ」
と、たゞ一喝して、退けてしまつた。
それのみか、彼の嘆願を取次いだ典獄は、獄中の者と親しみを交したといふ罪で、その晩、首を斬られてしまつたと聞いて、沮授は独り哭(な)いて、獄裡に嘆いてゐた。
「もう眼にも見えて来た。味方の滅亡は刻々にある。——あゝ、この一身も、どこの野末の土となるやら……」
——かゝる間に、一方、曹操の率ゐる模偽(モギ)河北軍は、いたる処(ところ)の敵の警備陣を、
「これは九将蔣奇以下の手勢、主君袁紹の命をうけて、にはかに烏巣の守備に増派されて参るものでござる」
と呶鳴つて、難なく通りぬけてしまつた。
烏巣の穀倉守備隊長淳于瓊は、その晩も、土地の村娘(ソンヂヤウ)など拉(ラツ)して来て、部下と共に酒をのんで深更まで戯れてゐた。ところが、陣屋の諸所にあたつてバリ/\と異様な音がするので、あわてゝ、飛び出してみると、四面一体は、はや火の海と化し、硝煙の光(ひか)り、投げ柴の火光などが火の襷(たすき)となつて入り乱れてゐるあひだを、金鼓、矢うなり、突喊(トツカン)のさけび、忽ち、耳も聾(ロウ)せんばかりだつた。
「あつ、夜討だつ」
狼狽を極めて、急に防戦してみたが、何もかも、間に合はない。
半数は、降兵となり、一部は逃亡し踏みとゞまつた者はすべて火焰(カエン)の下に死骸となつた。
曹操の部下は、熊手をもつて淳于瓊をからめ捕つた。
副将の眭元(ケイゲン)は行方知れず、趙叡(テフエイ)は逃げそこねて討ち殺された。
曹操は存分に勝つて淳于瓊の鼻をそぎ耳を切つて、これを馬の上にくゝり付け、凱歌をあげながら引返した。——夜もまだ明けきらぬうちであつた。
ときに袁紹は、本陣のうちで、無事を貪つて眠つてゐたが、
「火の手が見えます!」
と不寝(ねず)の番に起され初めて烏巣の方面の赤い空を見た。
そこへ、急報が入つた。
袁紹は驚愕して、咄嗟(トツサ)に執るべき処置も知らなかつた。
部将張郃は、
「すぐに烏巣の急を救はん」
とあせり立ち、高覧はそれに反対して、
「むしろ、曹操の本陣、官渡の留守を衝(つ)いて、彼の帰るところを無からしめん」
と主張した。
火の手を見ながらこんなふうに袁紹の帷幕(ヰバク)では議論してゐたのであつた。
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次回 → 逆巻く黄河(四)(2025年5月28日(水)18時配信)