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槍の先に、何やら白い布をくゝりつけ、それを振りながら驀(ま)しぐらに馳けて来る敵将を見、曹操の兵は、
「待てつ、何者だ」
と、たちまち捕へて、姓名や目的を詰問した。
「わしは、曹丞相の旧友だ。南陽の許攸といへば、きつと覚えてをられる。一大事を告げに来たのだからすぐ取次いでくれい」
その時、曹操は本陣の内で、衣(ころも)を解きかけて寛(くつろ)がうとしてゐたが、取次の部将からその事を聞いて、
「なに、許攸が?」
と、意外な顔して、すぐ通してみろと云つた。
ふたりは轅門(ヱンモン)のそばで会つた。少年時代の面影はどつちにもある。おゝ君か——となつかしげに、曹操が肩をたゝくと、許攸は地に伏して拝礼した。
「儀礼はやめ給へ。君と予とは、幼年からの友、官爵の高下をもつて相見るなど、水くさいぢやないか」
曹操は、手をとつて起した。許攸(キヨシウ)はいよいよ慚愧(ザンキ)して、
「僕は半生を過まつた。主を見るの明(メイ)なく、袁紹ごときに身を屈(かゞ)め、忠言も却(かへ)つて彼の耳に逆らひ、今日(こんにち)、追はれて故友の陣へ降(カウ)を乞ふなど……何とも面目ないが、丞相、どうか僕を憐れんで、この馬骨(バコツ)を用ひて下さらんか」
「君の性質はもとよりよく知つてゐる。無事に相見ただけでも欣(うれ)しい心地がするのに、更に、予に力を貸さんとあれば、何で否む理由があらう。歓んで君の言を聞かう。……まづ、袁紹を破る計があるなら予のために告げたまへ」
「実は、自分が袁紹にすゝめたのは、今、軽騎の精兵五千をひつさげて、間道の嶮(ケン)をしのび越え、ふいに許都を襲ひ、前後から官渡の陣を攻めようといふことで御座つた。——ところが、袁紹は用ひてくれないのみか、下将の分際で僭越(センヱツ)なりと、それがしを辛(つら)く退けてしまつた」
曹操は愕(おどろ)いて、
「もし袁紹が、君の策を容れたら、予の陣地は七花八裂(シチクワハチレツ)となるところだつた。あゝ危(あやふ)い哉(かな)。——して、君は今、この陣へ来て、逆に彼を破るとしたら、どう計を立てるか」
「その計を立てるまへに、まず伺ひたいことがある。いつたい丞相の御陣地には今、どれ位な兵糧の御用意がおありか?」
「半年の支へはあらう」
曹操が、即答すると、許攸は面(おもて)を苦(にが)りきらせて、じつと曹操の眼を〔なじツ〕た。
「噓をお云ひなさい。せつかく自分が、旧情を新たにして、真実を吐かうと思へば、あなたは却つて詐(いつは)りを云ふ。——われを欺かうとする人に真実は云へないぢやありませんか」
「いや、いまのは戯れだ。正直なところを云へば、三月ほどの用意しかあるまい」
許攸はまた笑つて、
「むべなる哉(かな)。世間の人が、曹操は奸雄で、悪賢い鬼才であるなどと、よく噂にも云ふが、成程、当らずと雖(いへど)も遠からずだ。あなたは飽(あく)まで人を信じられないお方と見える」
と、舌打ちして、嗟嘆(サタン)すると、やゝあわて気味に、曹操は彼の耳へいきなり口を寄せて、小声にささやいた。
「軍の機秘。実は味方に秘してゐるが、君だからもうほんとの事を云つてしまふ。実は、すでに涸渇(コカツ)して、今月を支へるだけの兵糧しかないのだ」
すると許攸は、憤然、彼の口もとから耳を離して、〔ずばり〕と刺すやうに云つた。
「子ども詐(だま)しのやうな噓はもうおよしなさい。丞相の陣にはもはや一粒の兵糧もないはずです。馬を喰(くら)ひ草を嚙むのは、兵糧とは云へませんぞ」
「えつ……何(ど)うして君は、そこまで知つてゐるのか」
と、さすがの曹操も顔色を失つた。
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次回 → 逆(さか)巻(ま)く黄河(二)(2025年5月26日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。