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掘子軍(クツシグン)といふものを編成したのである。
これは土竜(もぐら)のやうに、地の底を掘りぬいて、地下道をすゝみ敵前へ攻め出るといふ戦法である。河北軍が得意とするものとみえて、さきに北平城の公孫瓚を攻め陥した時も、この奇法で城内へ入り込み、放火隊の飛躍となつて、首尾よく功を奏した前例がある。
こんどの場合は、城壁とちがひ、官渡の流れが両軍のあひだにあるが、水深は浅い。深く掘りすすめば至難ではなからう。
こう審配が献策したので、
「よからう」
と、袁紹は直(たゞち)に実行させたのである。二万餘の土竜は、またゝくうちに、一すぢの地道を対岸の彼方まで掘り延ばして行つた。
曹操は早くもそれを察してゐた。なぜならば、坑(あな)の口から外へ出した土の山が、蟻地獄のやうに、敵陣の諸所に盛られ初めたからである。
「どうしたら防げるか」
彼はまた、劉曄にたづねた。
劉曄は笑つて、
「あの策(て)はもう古いです。これを防ぐには、味方の陣地の前に、横へ長い壕を掘切つておけばいゝ。——またその壕へ、官渡の水を引きこんでおけば更に妙でせう」
と、云つた。
「なるほど」
苦もなく防禦線は出来た。
物見によつて、それと知つた袁紹は、あわてゝ掘子軍の作業を中止させた。
こんなふうに、対戦はいたづらに延び、八月、九月も過ぎた。
輸送力に比して、大軍を擁してゐるため、長期となると、かならず双方とも苦しみ出すのは、兵糧であつた。
曹操は、そのため、幾(いく)度(たび)か官渡をすてゝ、一度都へ引揚げようかと考へたほどだつたが、ともあれ、荀彧の意見をたづねてみようと、都へ使いを立てたりしてゐた。
すると、徐晃の部下の史渙(シクワン)といふ者が、その日、一名の敵を捕虜として来た。
徐晃が、この捕虜を手なづけて、いろ/\問ひたゞしてみると、
「袁紹の陣でも、実は、兵糧の窮乏に困りかけてゐます。けれど、近頃、韓猛(カンマウ)といふものが奉行となつて、各地から穀物、糧米なんど夥(おびたゞ)しく寄せて来ました。てまへは、その兵糧を前線へ運び入れる道案内のために行く途中を、運悪く足の裏に刃物を踏んで落伍してしまつたのです」
と、噓でも無ささうな自白であつた。
で——徐晃はさつそく、その趣きを、曹操へ報告した。
曹操は、聞くと手を打つて、
「その兵糧こそ、天が我軍へ送つてくれたやうなものだ。韓猛といふ男は、ちよつと強いが、神経の粗(あら)い男で、すぐ敵を軽んじるふうのある部将だ。……誰か行つて、その兵糧を奪つて来るものはないか」
「誰彼と仰せあるより、それがしが史渙を連れて行つて来ませう」
徐晃は、その役を買つて出た。
壮なりとして、曹操はゆるしたけれど、敵地に深く入りこむことなので、徐晃の先手二千人のあとへ、更に、張遼と許褚の二将に五千餘騎を授けて立たせた。
その夜。
河北の兵糧奉行たる韓猛は、数千輛の穀車や牛馬に鞭を加へて、山間の道を蜿蜒(エン/\)と進んで来たが、突然、四山の谷間から、鬨(とき)の声が起(おこ)つたので、
「さては?」
と、急に防戦のそなへをしたが、足場はわるし道は暗いし、牛馬は暴れ出すし、まだ敵を見ぬうちから大混乱を起してゐた。
徐晃の奇襲隊は、用意の硫黄や焰硝(エンセウ)を投げつけ、敵の糧車へ、八方から火をつけた。
火牛は吠え、火馬は躍り、真つ赤な谷底に、人間は戦ひ合つてゐた。
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次回 → 霹靂車(五)(2025年5月22日(木)18時配信)