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元来この官渡の地勢は、河南北方に於ける唯一の要害たる条件を自ら備へてゐた。
うしろには大山(タイザン)が聳(そび)え、その麓をめぐる三十餘里の官渡の流れは、自然の濠をなしてゐる。曹操は、その水流一帯に、逆茂木(さかもぎ)を張りめぐらし、大山の嶮に拠つて固く守りを改めてゐた。
両軍はこの流れをさし挟んで対陣となつた。地勢の按配と双方の力の伯仲してゐるこの軍(いくさ)は、ちやうどわが朝(テウ)の川中島に於ける武田上杉の対戦に似てゐると云つてもよい。
「いかに、河北の軍勢でも、これでは近づき得まい」
と、曹軍はその陣容を誇るかのやうだつた。
さすがの袁紹も、果(はた)して、
「力攻めは愚だ」
と、覚(さと)つたらしく、こゝ数日は矢一つ放たなかつた。
ところが、一夜のうちに、官渡の北岸に、山が出来てゐた。抑(そも)、袁紹は何を考へ出したか、二十万の兵に工具を担はせて、人工の山を築かせたのである。十日も経つと、完全な丘になつた。
「これは?」
と知つた曹操のほうでは、陣所陣所から手をかざして、何か評議を凝(こら)してゐたが、つひに施す策もなかつた。
「……やあ、こんどはあの築山の上に、幾つも高櫓(たかやぐら)を組み立てゝゐるぞ」
「なるほど、仰山なことをやりをる、どうする気だらうの?」
その解答は、まもなく袁紹の方から、実行で示して来た。
細長い丘の上に、五十座の櫓を何ケ所も構築して、それが出来あがると、一櫓に五十(ゴジフ)張(はり)の弩弓手や砲手がたて籠り、いつせいに矢石を撃ち出して来たのである。
これには曹操も閉口して、前線すべて山麓の陰へ退却してしまふしかなかつた。
「渡河の用意!」
当然、袁紹の作戦は次の行動を開始してゐた。夜な/\河中の逆茂木を伐りのぞき、やがて味方の掩護(エンゴ)射撃のもとに敵前上陸へかからうものと機を窺つてゐた。
曹操も、内心、恐れを覚えて来たらしい。
「官渡の守りも、この流れあればこそだが?……」
すると幕僚の劉曄が、
「まづ敵の築丘(チクキウ)や櫓をさきに粉砕してしまはなければ味方はどうにも働くことができません。それには発石車を製して虱(しらみ)〔つぶし〕に打ち砕くがよいでせう」
と献策した。
「発石車とは何か」
「それがしの領土に住む、名もない老鍛冶屋が発明したもので、硝薬(セウヤク)を用ひ、大石を筒にこめて、飛爆させるものであります」
と、図に描いてみせた。
曹操はよろこんで、直ちに、その無名の老鍛冶屋を奉行にとりたて、鍛冶、木工、石屋、硝石作りなど、数千人の工人を督励して、図のやうな発石車を数百輛作らせた。
まさに科学戦である。——近代兵器のそれとは比較にならないがその精神や戦法は、たしかにそこを目ざして飛躍してゐる。
車砲は口をそろへて烈火を吐いた。大石は虚空にうなり、河をこえて、人工の丘に、無数の土けむりをあげ、また、敵の櫓をみな木端(こつぱ)微塵(ミヂン)に爆破してしまつた。
「何だらう。あの器械は」
敵はもとより、味方のものまで目に見た科学の威力に、ひとしく畏怖した。
「霹靂車だ……。あれは西方の海洋から渡つて来た夷蛮(イバン)の霹靂車といふ火器だ」
物(もの)識(し)りらしく云ふ者があつて、いつかそのまゝ霹靂車と称(よ)び慣(なら)はされた。
それはともかく。河北軍はまた新しい一戦法を案出して、曹操を脅かした。
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次回 → 霹靂車(四)(2025年5月21日(水)18時配信)