ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 孫権立つ(六)
***************************************
呉を興した英主孫策を失つて、呉は一たん喪色(モシヨク)の底に沈んだが、そのため却つて、若い孫権を中心に輔佐の人材があつまり、国防内政ともに、著しく強化された。
国策の大方針として、まず河北の袁紹とは絶縁することになつた。
これは諸葛瑾の献策で、瑾は長く北支にゐたので、袁紹の帷幕の内輪揉めをよく知つてゐたからである。
しばらく曹操にしたがふと見せ、時節が来たら曹操を討つ!
それが方針の根底だつた。
さう極(きま)つたので、河北から使者に来て長逗留してゐた張震(チヤウシン)(ママ)は何ら得るところなく、追ひ返されてしまつた。
一方、曹操の方でも。
呉の孫策死す!——といふ大きな衝動をうけて、にはかに評議をひらき、曹操はその席で、
「天の与へた好機だ。たゞちに大軍を下江(ゲカウ)させて、呉を伐(う)ち取らん乎(か)」
と提議したが、折ふし都へ来てゐた侍御史(ジギヨシ)張紘がそれを諫めて、
「人の喪に乗じて、軍を興すなどとは、丞相にも似あはしからぬことでせう。古(いにしえ)の道にも、聞ゐた例がありません」
と云つたので、曹操もその卑劣をふかく恥ぢたとみえ、以後、それを口にしないばかりでなく、上使を呉へ送つて後継者の孫権に恩命をつたへた。
すなはち孫権を討虜将軍(タウリヨシヤウグン)、会稽の太守に封じ、また張紘には、会稽の都尉を与へて帰らせた。
彼の選んだ方針と、呉がきめてゐた国策とは、その永続性はともかく孫策の死後においては、端なくも一致した。
——だが、をさまらないのは、河北の袁紹であつた。
使者は追ひ返され、呉はすゝんで曹操に媚び、曹操はまた、呉の孫権に、叙爵昇官の斡旋をとつて、両国提携の実を見せつけたのであるから、孤立河北軍の焦躁や思ふべしであつた。
「まづ、曹操を打倒せよ」
令に依つて。
冀州、青州、幷州、幽州、など北支の大軍五十万は官渡(クワント)(河南省・開封附近)の戦場へ殺到した。
袁紹も、曠(はれ)の〔いでたち〕を着飾つて、冀北(キホク)城から〔いざ〕出陣と馬をひかせると、重臣の田豊が、
「かくの如く、内を虚にして、みだりにお逸(はや)りあつては、かならず大禍を招きます。むしろ官渡の兵を退(ひ)かせ、防備をなさるこそ、最善の策と存じますが」
と、極力その不利を説いた。
かたはらに居た逢紀は、日頃から田豊とは犬猿の〔間がら〕なので、この時とばかり、
「出陣にあたつて不吉なことを云はれる。田豊には、主君の敗北を期してゐるとみえるな。何を根拠に、大禍に会はんなどゝ、この際断言されるか」
と、殊更(ことさら)、大仰(おほぎやう)に咎め立てした。
出陣の日は、わづかな事も吉凶を占つて、気にかけるものである。不吉な言をなしたといふのは大罪に値(あたひ)する。まして重臣たるものがである。
袁紹も怒つて、田豊を血祭りにせんと猛つたが、諸人が哀号して、助命を乞ふので、
「——首枷(くびかせ)をかけて獄中に抛(はふ)りこんでおけ。凱旋ののちきつと罪を正すであらう」
と云ひ払つて出陣した。
ところが途中、武陽(ブヤウ)(河南省・広平附近)まで進むと、また沮授が来て諫言を呈した。
「曹操は速戦即決をねらつてゐます。後の整備や兵糧が乏しいためです。しかるに、その図に乗つて急激にこの大軍で当られるのは心得ません。味方は大軍ですが、その勇猛と意気にかけては、迚(とて)も彼に及ぶものではないに」
「だまれ。汝もまた、田豊を真似て、みだりに不吉の言を吐くか」
袁紹は、彼の首にも首枷をかけて、獄に抛つてしまつた。
かくて、官渡の山野、四方九十里にわたつて、河北の軍勢七十餘万、陣を布いて曹操に対峙した。
***************************************
次回 → 霹靂車(二)(2025年5月19日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。