ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 孫権立つ(五)
***************************************
「失礼しました——」と魯粛はまもなく戻つて来て
「自分には一人の老母がをるものですから、老母の意向もたづねて来たわけです。ところが老母もそれがしの考へと同様に、呉に仕へるがよからうと、歓んでくれましたから、早速お招きに応じることにしませう」
と、快諾の旨を答へた。
周瑜は雀躍(こをど)りして、
「これでわが三江の陣営は精彩を一新する」
と、直ちに駒を並べて、呉郡に帰り魯粛をみちびいて、主君孫権にまみえさせた。
彼を迎へて、孫権がいかに心強く思つたかはいふ迄(まで)もない。以来、喪室(もしつ)の感傷を一(イツ)抛(ハウ)して、政務を見、軍事にも熱心に、明け暮れ魯粛の卓見をたゝいた。
ある日は、たゞ二人酒を飲んで、臥(ふ)すにも床を一つにしながら、夜半また燭を掲げて、国事を談じたりなどしてゐた。
「御身は漢室の現状をどう思ふ?また、わが将来の備へは?」
若い孫権の眸はかゞやく。
魯粛は答へて云ふ。
「おそらく漢朝の隆盛はもう過去のものでせう。却(かへつ)て寄生木(やどりぎ)たる曹操の方が次第に老いたる親木を蝕(く)ひ、幹を太らせ、ついに根を漢土に張つて、繁茂してくること必然でせう。——それに対して、わが君は静かに時運をながめ、江東の要害を固うして、河北の袁紹と、鼎足(テイソク)の形をなし、おもむろに天下の隙(ゲキ)を窺つてをられるのが上策です。一朝、時来れば黄祖を平げ、荊州の劉表を征伐し、一挙に遡江の態勢を拡大して行く。曹操はつねに河北の攻防に暇なく、呉の進出を妨げることはできません」
「漢室が衰へたあと、朝廟(テウベウ)はどうなるであらう」
「ふたゝび、漢の高祖のごとき人物が現れ、帝王の業が始りませう。歴史は繰返されるものです。この秋(とき)に生れ、地の利と人の和を擁し、呉三江を継がれたわが君は、よく/\御自重なさらねばなりますまい」
孫権はじつと聞いてゐた。彼の耳朶(ジダ)は紅かつた。
その後、数日の暇を乞うて、魯粛が田舎の母に会ひに行く時、孫権は、彼の老母へといつて、衣服や帷帳(ヰチヤウ)を贈つた。
魯粛はその恩に感じ、やがて帰府するとき、更にひとりの人物を伴つて来て、孫権に推薦した。
この人は、漢人にはめづらしい二字姓をもつてゐたから、誰でもその家門を知つてゐた。
姓を諸葛(シヨカツ)、名を瑾(キン)といふ。
孫権に、身上(みのうへ)をたづねられて、その人は語つた。
「郷里は、瑯琊(ラウヤ)の南陽(山東省・沂州)であります。亡父は諸葛珪(シヨカツケイ)と申して、泰山の郡丞(グンジヤウ)を勤めてゐましたが、私が洛陽の大学に留学中亡くなりました。その後(のち)北支は戦乱がつゞいて、継母の安住も得られぬため、継母をつれて江東に避難いたし、弟や姉は、私と別れて、荊州の伯父のところで養はれました」
「伯父は、何をしてゐるか」
「荊州の刺吏(ママ)劉表に仕へ重用されてゐましたが、四、五年前乱に遭つて土民に殺され、いまはすでに故人となつています」
「御身の年齢は」
「ことし二十七歳です」
「二十七歳。すると、わが亡兄の孫策と同年だの」
孫権は非常になつかしさうな顔をした。
魯粛はかたはらから、
「諸葛(シヨカツ)兄(ケイ)は、まだ若いですが、洛陽の大学では秀才の聞えがあり、詩文経書通ぜざるはありません。殊(こと)に、自分が感服してゐるのは、継母に仕へること実の母のやうで、その家庭を見るも、瑾君の温雅な情操がわかる気がします」
と、その為人(ひととなり)を語つた。
孫権は、彼を呉の上賓として、以来重く用ひた。
この諸葛瑾こそ、諸葛(シヨカツ)孔明(コウメイ)の実兄で、弟の孔明より年は七つ上だつた。
***************************************
次回 → 霹靂車(へきれきしや)(一)(2025年5月17日(土)18時配信)