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その家の門をくゞれば、その家の主人の嗜(たしな)みや家風は自ら分るものといふ。
周瑜は、門の内へはいつて、まず主人魯粛の為人(ひととなり)をすぐ想像してゐた。
門を通つても咎(とが)める者なく、内は広く、そして平和だつた。飽(あく)までこの地方の大百姓といつた構へである。どこやらで牛が啼いてゐる。振向くと村童が二、三人、納屋の横で水牛と寝ころんで嘻々(キヽ)と戯れてゐる。
「御主人はおいでかね」
近づいて、周瑜が問ふと、村童たちは、彼の姿をぢろ/\と見まはしてゐたが、
「ゐるよ、あつちに」
と、木の間の奥を指さした。
見るとなるほど、田舎〔びた〕母屋とはかけ離れて一(ひと)棟(むね)の書堂が見える。周瑜は童子たちに、
「ありがたう」
と、愛想を云つて、そこへ向ふ、疎林の小径(こみち)を歩いて行つた。
すると、立派な風采をした武人が供を連れて、鷹揚(オウヤウ)に歩いて来た。魯粛の訪客だなと思つたので、すこし道を躱(かは)してゐると、客は周瑜に会釈もせず、威張つて通りすぎた。
周瑜は気にもかけなかつた。そのまゝ書堂の前まで来ると、こゝには今、柴門(サイモン)をひらいて、客を見送つたばかりの主がちやうどまだそこに佇(たたず)んでゐた。
「失礼ですが、あなたは当家のお主(あるじ)魯粛どのではありませんか」
周瑜がいんぎんに問ふと、魯粛は豊(ゆたか)な眼をそゝいで、
「いかにも、てまへは魯粛ですが、して貴方(あなた)は」
「呉城の当主、孫権のお旨をうけて、突然お邪魔に参つたもの。すなわち巴丘の周瑜ですが」
「えつ、あなたが瑜(ユ)君(クン)ですか」
魯粛は非常におどろいた。巴丘の周瑜といへば知らぬ者はなかつたのである。
「ともあれ、どうぞ……」
と、書堂に請(シヤウ)じて、来意をたづねた。
うはさにたがはぬ魯粛の人品に内心、すつかり感悦してゐた周瑜は、辞を低うしてかう説いた。
「今日の大事は、もちろん将来にあります。将来を慮(おもんぱ)かるとき、君たる者はその臣を選ばねばならず、臣たらんとする者も、その君を選ぶことが、実に生涯の大事だらうと存ぜられる。——それがしは夙(つと)にあなたの名を慕つてゐたが、お目にかゝる折もなかつたところ、御承知のとほり呉の先主孫策のあとを継がれて、まだお若い孫権が当主に立たれた。かう申しては、我田引水とお聞きかも知れぬが、主人孫権はまれに見る英邁(エイマイ)篤実(トクジツ)のお方で、よく先哲の秘説をさぐり、賢者を尊び、有能の士を求めること、実に切なるものがある」
と、冒頭(まへおき)して、
「どうです、呉に仕へませんか。あなたも一箇の書堂にをさまつて文人的な閑日(カンジツ)に甘んじたり、終生、大百姓でいゝとしてゐるわけでもありますまい。世が泰平ならば、或はそれも結構ですが、天下の時流はあなたのやうな有能の士を、こんな田舎におくことは許しません。——巣湖の鄭宝に仕へるくらゐなら……敢(あへ)てそれがしは云ひ断(き)ります。あなたは、呉に仕へるべきであると」
周瑜は力辯した。
魯粛はにこやかに頷(うなづ)いて、
「いまこゝから帰つて行つた客と、お会ひでしたらう」
「お見かけしました。やはりあなたを引き出しに来た劉子揚でせう」
「さうです。再三再四、これへ参つて鄭宝へ仕官せよと、根気よくすゝめてくれるのですが」
「あなたの意(こゝろ)はうごきます。良禽(リヤウキン)は樹をえらぶ。——。当然です。それがしとともに呉に来てください」
「……?」
「お嫌ですか」と、切込むと、
「いや、待つて下さい」
と、魯粛はふいに立つと、客をそこへのこして、独り母屋の方へ行つてしまつた。
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次回 → 孫権立つ(六)(2025年5月16日(金)18時配信)