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前回はこちら → 孫権立つ(三)
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呉は国中喪に服した。空に哀鳥の声を聞くほか、地に音曲(オンギヨク)の声はなかつた。
葬儀委員長は、孫権の叔父孫静があたつて、大葬の式は七日間にわたつて執り行はれた。
孫権は喪にこもつて、ふかく兄の死をいたみ、ともすれば哭いてばかりゐた。
「そんなことでどうしますか。豺狼(サイラウ)の野心をいだく輩(ともがら)が地にみちてゐるこの時に。——どうか前王の御遺言を奉じて、国政につとめ、外には諸軍勢を見、四隣にたいしては、前代に劣らぬ当主あることをお示し下さい」
張昭は、彼を見るたびに、さう云つて励ました。
巴丘の周瑜は、その領地から夜を日についで、呉郡へ馳けつけて来た。
孫策の母も、未亡人も、彼のすがたを見ると、涙を新たにして、故人の遺託をこま/゛\伝へた。
周瑜は、故人の霊壇に向つて拝伏し、
「誓つて、御遺言に添ひ、知己の御恩に報いまする」
と、暫(しば)し去らなかつた。
そのあとで、彼は孫権の室に入つて、ただ二人ぎりになつてゐた。
「何事も、その基(もと)は人です。人を得る国は昌(さかん)になり、人を失ふ国は亡びませう。ですからあなたは、高徳才明な人を側に持つことが第一です」
周瑜のことばを、孫権は素直にうなづいて聞いてゐた。
「家兄(このかみ)も息をひく時さう云はれた。で、内事は張昭に問ひ、外事は周瑜に諮れと御遺言になつた。きつと、それを守らうと思ふ」
「張昭はまことに賢人です。師傅(シフ)の礼を執つて、その言を貴ぶべきです。けれど、私は性来の駑鈍(ドドン)、いかんせむ故人の寄託は重すぎます。ねがはくば、あなたの補佐として、私以上の者を一人おすゝめ申しあげたい」
「それは誰ですか」
「魯粛(ロシユク)——字(あざな)を子敬(シケイ)といふものですが」
「まだ聞いたこともないが、そんな有能の士が、世にかくれてゐるものだらうか」
「野(ヤ)に遺賢なしといふことばがありますが、いつの時代にならうが、かならず人の中には人がゐるものです。たゞ、それを見出す人のはうが居ません。また、それを用ふる組織が悪くて、有能もみな無能にしてしまふことが多い」
「周瑜。その魯粛とやらは一体どこに住んでゐるのか」
「臨淮(リンワイ)の東城(トウジヤウ)(安徽省・東城)にをります。——この人は、胸に六韜(リクタウ)三略(サンリヤク)を蔵し、生れながら機謀に富み、しかも平常は実に温厚で、会へば春風に接するやうです。幼少に父をうしなひ、ひとりの母に仕へて孝養をつくし、家は富んでゐるものですから東城の郊外に住んで、悠々自適してゐます」
「知らなかつた。自分の領下に、さういふ人がをらうとは」
「仕官するのを好まないやうです。魯粛の友人の劉子揚(リウシヤウ)といふのが、巣湖(サウコ)へ行つて鄭宝(テイハウ)に仕へないかとしきりにすゝめてゐる由ですが、どんな待遇にも、寄らうとしません」
「周瑜、そんな人が、もし他へ行つたら大変だ。御辺が参つて、何とか、召し出して来てくれないか」
「さつきも云つた通り、いかなる人材でも、それをよく用ひなければ、何にもなりません。あなたに真の熱情があるなら、私がかならず説いて連れて来ますが」
「国のため、家の為、何で賢人を求めて、賢人を無用にしよう。いそいで行つて来てくれい、御苦労だが」
「承知しました」
周瑜はひきうけて、次の日、東城へ立つた。そして魯粛の田舎を訪ねるときは、わざと供も連れず、たゞ一騎で、そこの門前に立つた。
ちやうど田舎の豪農といふやうな家構へだつた。門の内には長閑(のどか)に臼(うす)を挽(ひ)く音がしてゐた。
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次回 → 孫権立つ(五)(2025年5月15日(木)18時配信)