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前回はこちら → 孫権立つ(二)
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それは弟の孫権だつた。
孫権は、泣き腫らした眼を俯(ふ)せながら、兄孫策の枕頭へ寄つて、
「兄上、お気をしつかり持つて下さい。いまあなたに逝かれたら、呉の国家は、柱石を失ひませう。そこにゐる母君や、多くの臣下を、どうして抱へてゆけませう」
と、両手で顔をつゝんで泣いた。
孫策は、いまにも絶えなんとする呼吸であつたが、強ひて微笑しながら、枕の上の顔を振つた。
「気をしつかり持てと。……それはおまへに云ひ遺(のこ)すことだ。孫権、そんなことはないよ。おまへには内治の才がある。しかし江東の兵をひきいて、乾坤一擲を賭けるやうなことは、おまへはわしに遠く及ばん。……だからそちは、父や兄が呉の国を建てた当初の艱難をわすれずに、よく賢人を用ひ有能の士をあげて、領土をまもり、百姓を愛し、堂上にあつては、よく母に孝養せよ」
刻々と、彼の眉には、死の色が兆(きざ)して来た。病殿の内外は、水を打つたやうに寂として、極めてかすかな遺言の声も、一様にうなだれてゐる群臣のうしろの方にまで聞えてくるほどだつた。
「……あゝ不孝の子、この兄は、もう天命も尽きた。慈母の孝養をくれ/゛\頼むぞ。また諸将も、まだ若い孫権の身、何事も和し、そして扶(たす)けてくれるやうに。孫権もまた、功ある諸大将を軽んじてはならんぞ。内事は何事も、張昭に諮(はか)るがよい。外事の難局にあはゞ周瑜に問へ。……あゝ周瑜。周瑜がこゝにゐないのは残念だが、彼が巴丘(ハキウ)から帰つて来たらよう伝へてくれい」
さう云ふと、彼は、呉の印綬(インジユ)を解いて、手づからこれを孫権に譲つた。
孫権は、をのゝく手に、印綬をうけながら、片膝を床について、滂沱(バウダ)……たゞ滂沱……涙であつた。
「夫人(おく)。……夫人(おく)……」
孫策は、なほ眸をうごかした。泣き仆れてゐた妻の喬(ケウ)氏は、みだれた雲鬢(ウンビン)を良人(をつと)の顔へ寄せて、よよと、むせび泣いた。
「そなたの妹は、周瑜に娶(め)合(あは)せてある。よくそなたからも妹に云つて、周瑜をして、孫権を補佐するやう……よいか、内助をつくせよ。夫婦、人生の中道に別れる、これほどな不幸はないが、またぜひもない」
次に、なほ幼少な小妹(セウマイ)や弟たちを、みな近く招きよせて、
「これからはみな、孫権を柱とたのみ、慈母をめぐつて、兄弟(ケイテイ)相(あひ)背(そむ)くやうなことはしてくれるなよ。汝ら、家の名をはづかしめ、義にそむくやうな事があると、孫策のたましひは、九泉の下(もと)にゐても、誓つてゆるさぬぞ。……噫(あゝ)!」
云ひ終つたかと思ふと、忽然、息がたえてゐた。
孫策、実に二十六歳であつた。江東の小覇王が、こんなにはやく夭折しようとは、たれも豫測してゐなかつたことである。
印綬を継いで、呉の主(あるじ)となつた孫権は、この時、まだわづか十九歳であつた。
けれど、孫策が臨終にも云つたやうに、兄の長所には及ばないが、兄の持たないものを彼は持つてゐた。それは内治的な手腕、保守的な政治の才能は、むしろ孫権のはうが長じてゐたのである。
孫権、字(あざな)は仲謀(チウボウ)、生れつき口が大きく、頤(あご)ひろく、碧眼紫髯(ヘキガンシゼン)であつたといふから、孫家の血には、多分に熱帯地の濃い南方人の血液がはいつてゐたかもしれない。
彼の下にも、幼弟がたくさんあつた。かつて、呉へ使(つかひ)にきた漢の劉琬(リウヱン)は、よく骨相を観るが、その人がかう云つたことがある。
「孫家の兄弟は、いづれも才能はあるが、どれも天祿(テンロク)を完うして終ることができまい。たゞ末弟の孫仲謀だけは異相である。おそらく孫家を保つて寿命長久なのはあの児(こ)だらう」
この言は、けだし孫家の将来と三児(みつご)の運命を、或る程度豫言してゐた。いやすでに孫策にはその言が不幸にも適中してゐたのである。
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次回 → 孫権立つ(四)(2025年5月14日(水)18時配信)