以下の内容は昨日(5月8日)18:15に配信したものと同内容となります。
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前回はこちら → 于吉仙人(四)
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「よからう」
孫策は快然と笑つて即座に吏に命じた。
「さつそく、市中に雨乞の祭壇をつくれ。彼奴(きやつ)が化(ばけ)の皮を脱ぐのを見てやらう」
市街の広場に壇が築かれた。四方に柱を立て彩華をめぐらし、牛馬を屠(はうむ)つて雨龍や天神を祭り、于吉は沐浴して壇に坐つた。
麻衣(マイ)を着(き)更(か)へるとき、于吉はそつと、自分を信じてゐる吏にさゝやいた。
「わしの天命も尽きたらしい。こんどはもういけない」
「なぜですか、霊験をお示しあればいゝでせう」
「平地に三尺の水を呼んで百姓を救ふことはできても、自分の命数だけはどうにもならんよ」
壇の下へ、孫策の使が来て、高らかに云ひわたした。
「もし、今日から三日目の午(うま)の刻までに、雨が降らないときは、この祭壇とともに、生きながら焼き殺せとの厳命であるぞ。よいか、きつと心得ておけよ」
于吉はもう瞑目してゐた。
白髪(ハクハツ)のうへから〔かん〕/\日があたる。夜半は冷気肌を刺す。祭壇の大香炉は、縷々(ルヽ)として香煙を絶たず、三日目の朝となつた。
一滴の雨もふらない。
けふも満天は焦(や)けて、烈々たる太陽だけがあつた。たゞ地上には聞き伝へて集まつた数万の群集が、それこそ雲のごとく犇(ひし)めいてゐた。
すでに午の刻となつた。陽(ひ)時計を睨んでゐた吏は、鐘台(シヤウダイ)へ馳けあがつて、時刻の鐘を打つた。数万の百姓は、それを聞くと、大声をあげて哭(な)いた。
「見ろ!およそ道士だの神仙だのといふやつは、たいがいかくの如きものだ。たゞちにあの無能な老爺(おやぢ)を焚(やき)殺せ」
と、孫策が城楼から下知した。
刑吏は、祭壇の四方に、薪や柴を山と積んだ。たちまち烈風が起つて、于吉のすがたを焰の中につつんだ。
火は風をよび、風はまた砂塵を呼んで、一すじの黒気(コツキ)が濃い墨のやうに空中へ飛揚して行つた。——と見るまに、天の一角にあたつて、霹靂(かみなり)が鳴り、電光が〔はため〕き、ぽつ、ぽつ、と痛いやうな大粒の雨かと思ふうち、それも一瞬で、やがて盆をくつがへすやうな大雷雨とはなつて来た。
未(ひつじ)の刻まで降り通した。市街は河となつて濁流に馬も人も石も浮くばかりだつた。それ以上降つたら万戸(バンコ)洪水に浸されさうに見えたが、やがて祭壇の上から誰やらの大喝が一声空をつんざいたかと思ふと、雨は〔はた〕と霽(や)み、ふたゝび耿々(カウ/\)たる日輪が大空にすがたを見せた。
刑吏が驚いて、半焼の祭壇のうへを見ると、于吉は仰向けに寝てゐた。
「あゝ、真に神仙だ」
と、諸大将は駈け寄つて、彼を抱き下ろし、われがちに礼拝讃嘆してやまなかつた。
孫策は轎(くるま)に乗つて、城門から出て来た。さだめし赦免されるであらうとみな思つてゐたところ彼の不機嫌は前にも増して険悪であつた。武将も役人もことごとく衣服の濡れるもいとはず于吉のまはりに拝跪(ハイキ)した〔ざま〕が、彼の眼には見るに耐へなかつた。
「大雨(タイウ)を降(くだ)すも、炎日のつゞくも、すべて自然の現象で、人間業(にんげんわざ)で左右されるものではない。汝ら諸民の上に立つ武将たり市尹(シヰン)たりしながら、なんたる醜状か。妖人に組して、国を紊(みだ)すも、謀叛してわれに弓をひくも、同罪であるぞ。斬れツ、その老爺(おやぢ)を!」
諸臣、黙然と首をたれてゐるばかりで、誰(たれ)も、于吉を怖れて進み出る者もなかつた。
孫策はいよ/\憤つて、
「なにを臆すかツ、よしつ、このうへは自ら成敗してくれむ。見よわが宝剣の威を」
と、戞然(カツゼン)、抜き払つた一閃の下に、于吉の首を刎(は)ねてしまつた。
日輪は赫々と空にありながら、また沛然と雨が降りだした。怪しんで人々が天を仰ぐと、一(イチ)朶(ダ)の黒雲(コクウン)のなかに、于吉の影が寝てゐたやうに見えた。
孫策はその夕方頃から、どうもすこし容子が変であつた。眼は赤く血ばしり、発熱気味に見うけられた。
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次回 → 孫権立つ(一)(2025年5月10日(土)18時配信)