ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 于吉仙人(二)
***************************************
ほかならぬ袁紹の使(つかひ)と聞いて、孫策は病中の身を押して対面した。
使者の陳震は、袁紹の書を呈してからさらに口上をもつて、
「いま曹操の実力と拮抗し得る国はわが河北か貴国の呉しかありません。その両家がまた相結んで南北から呼応し、彼の腹背を攻めれば、曹操がいかに中原に覇を負ふとも、破るゝは必定でありませう」
と、軍事同盟の緊要を力説し、天下を二分して、長く両家の繁栄と泰平を計るべき絶好な時機は今であると云つた。
孫策は大いに歓んだ。彼も打倒曹操の念に燃えてゐたところである。
これこそ天の引き会はせであらうと、城楼に大宴をひらいて陳震を上座に迎へ、呉の諸大将も参列して、旺(さかん)なもてなし振(ぶり)を示してゐた。
すると、宴(エン)も半ばのうちに、諸将は急に席を立つて、騒々(ざは/\)とみな楼台から降りて行つた。孫策はあやしんで、何故にみな楼を降りてゆくかと左右に訊ねると、近侍の一名が、
「于吉仙人が来給うたので、その御姿を拝さんと、いづれも争つて街頭へ出て行かれたのでせう」
と、答へた。
孫策は眉毛をピリとうごかした。歩を移して楼台の欄干に倚(よ)り城内の街を見(み)下(おろ)してゐた。
街上は人で埋まつてゐた。見ればそこの辻を曲つていま真つ直(すぐ)に来る一道人がある。髪も髯も真つ白なのに、面は桃花のごとく、飛雲鶴翔(ヒウンカクシヤウ)の衣をまとひ、手には藜(あかざ)の杖をもつて、飄々と歩むところ自(おのづ)から微風が流れる。
「于吉さまぢや」
「道士様のお通りぢや」
道をひらいて、人々は伏し拝んだ。香を焚(た)いて、土下坐する群衆の中には、百姓町人の男女老幼ばかりでなく、今あわてゝ宴を立つて行つた大将のすがたも交(まじ)つてゐた。
「なんだ、あのうす汚い老爺(おやぢ)は!」
孫策は不快ないろを満面にみなぎらして、人をまどはす妖邪の道士、すぐ搦(から)め捕つて来いと、甚だしい怒りやうで、武士たちに下知した。
ところが、その武士たち迄(まで)、口を揃へて彼を諫めた。
「かの道士は、東国に住んでゐますが、時々、この地方に参つては、城外の道院にこもり、夜は暁にいたるまで端坐してうごかず、昼は香を焚いて、道を講じ、符水(フスヰ)を施して、諸人の万病を救ひ、その霊顕によつて癒(なほ)らない者はありません。そのため、道士にたいする信仰はたいへんなもので、生ける神仙とみな崇(あが)めてゐますから、めつたに召捕つたりしたら、諸民は号泣して国主をお怨みしないとも限りませぬ」
「ばかを申せつ。貴様たち迄(まで)、あんな乞食(こじき)老爺(おやぢ)に〔たばか〕られてゐるのかつ。否(いな)やを申すと、汝らから先に獄へ下すぞ」
孫策の大喝に会つて、彼らはやむなく、道士を縛つて、楼台へ引つ立てゝ来た。
「狂夫つ、何故、わが良民を、邪道にまどはすかつ」
孫策が、叱つて云ふと、于吉は水のごとく冷(ひ)やゝかに、
「わしの得たる神書と、わしの修めたる行徳(ギヤウトク)をもつて、世人に幸福を頒(わか)ち施すのが、なぜ悪いか、いけないのか、国主はよろしく、わしにたいして礼をこそ云ふべきであらう」
「だまれつ。この孫策をも愚夫あつかひにするか。誰ぞ、この老爺の首を刎(は)ねて、諸民の妖夢を醒(さ)ましてやれ」
だが、誰(たれ)あつて、進んで彼の首に剣を加へようとする者はなかつた。
張昭は、孫策をいさめて、何十年来、何一つ過ちをしてゐないこの道士を斬れば、かならず民望を失ふであらうと云つたが、
「何の、こんな老(おい)ぼれ一匹、犬を斬るも同じことだ。いづれ孫策が成敗する。けふは首枷(くびかせ)をかけて獄に下しておけ」
と、ゆるす気色もなかつた。
***************************************
次回 → 于吉仙人(四)(2025年5月8日(木)18時配信)