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孫策の馬は、稀世の名馬で「五花馬(ゴクワバ)」といふ名があつた。多くの家臣をすてゝ、彼方(かなた)此方(こなた)、平地を飛ぶやうに馳駆(チク)してゐた。
彼の弓は、一頭の鹿を見事に射とめた。
「射たぞ、誰(たれ)か、獲物(えもの)を拾へ」
振向いた時である。孫策の顔へ、ぴゆつと、一本の箭(や)が立つた。
「あつ」
顔を抑(おさ)へると、藪の陰から躍り出した浪人三名が、
「恩人許貢の仇(かたき)、思ひ知つたか」
と、槍をつけて来た。
孫策は、弓をあげて、一名の浪人者を打つた。しかし、また一方から突いて来た槍に太股をふかく突かれた。五花馬の背から転げ落ちながらも、孫策はあひての槍を奪つてゐた。その槍で自分を突いた対手(あひて)を即座に殺したが、同時に、
「うぬつ」
と、うしろから、二名の浪人もまた、所きらはず、彼の五体を突いてゐた。
うゝ——むツと、大きなうめきを発して、孫策が仆(たふ)れたとき、残る二名の浪人もまた、急を見て馳けつけて来た呉将程普のために、ずた/\に斬り殺されてゐた。その附近は、夥(おびたゞ)しい血しほで足の踏み場もないほどだつた。
何にしても、国中の大変とはなつた。応急の手当を施して、すぐ孫策の身は、呉会の本城へ運びふかく外部へ秘した。
「華陀(クワダ)を呼べ。華陀が来れば、こんな瘡(きず)は癒(なほ)る」
〔うは〕言のやうに、当人はいひつづけてゐた。さすがに気丈であつた。それにまだ肉体が若い。
いはれる迄(まで)もなく、名医華陀のところへは、早馬がとんでゐた。すぐ呉会の城へのぼつた。けれど華陀は眉をひそめた。
「いかんせん、鏃(やじり)にも槍にも、毒が塗つてあつたやうです。毒が骨髄に沁(し)みとほつてゐなければよろしいが……?」
三日ばかりは、昏々とたゞ呻(うめ)いてゐる孫策であつた。
けれども二十日も経つと、さすがに名医華陀の手をつくした医療の効はあらはれて来た。孫策は時折、うすら笑みすら枕頭の人々に見せた。
「都に在任してゐた蔣林(シヤウリン)が帰りましたが、お会ひなされますか」
すつかり容体が快(よ)いので、侍臣がいふと、孫策はぜひ会つて、都の情勢を聞きたいといふ。
蔣林は病牀の下に拝跪(ハイキ)して、何くれとなく報告した。
すると孫策が、
「曹操は近ごろおれの事をどう云つてゐるか」
と、訊ねた。蔣林は、
「獅子の児(こ)と喧嘩はできぬと云つてゐるさうです」
と、噂のまゝ話した。
「さうか。あはゝゝ」
めづらしく、孫策は声をだして笑つた。非常な御機嫌だと思つたので、蔣林は訊かれもしないのに、なお喋舌(しやべ)つてゐた。
「——しかし、百万の強兵があらうと、彼はまだ若い。若年の成功は得て思ひ上がり易(やす)く、図に乗つてかならず蹉跌(サテツ)する。いまに何か内争を招き、名もない匹夫の手にかかつて非業な終りを遂げるやも知れん。……などゝ曹操は、そんな事も云つてゐたと、朝廷の者から聞きましたが」
見る/\うち孫策の血色は濁つて来た。身を起して北方をはつたと睨み、やをら病牀を降(お)りかけた。人々が驚いて止めると、
「曹操何ものぞ。瘡(きず)の癒(い)えるのを待つてはゐられない。すぐわしの戦袍(センパウ)や盔(かぶと)をこれへ持て、陣触れをせいつ」
すると張昭が来て、
「何たることです。それしきの噂に激情をうごかして、千金の御身を軽んじ給ふなどといふことがありますか」
と、叱るが如く宥(なだ)めた。
ところへ、遠く河北の地から、袁紹の書を持つて、陳震が使に来た。
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次回 → 于吉仙人(三)(2025年5月7日(水)18時配信)