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呉の国家は、こゝ数年のあひだに実に目ざましい躍進をとげてゐた。
浙江一帯の沿海を持つばかりでなく、揚子江の流域と河口を扼(ヤク)し、気温は高く天産は豊饒で、いわゆる南方系の文化と北方系の文化との飽和に依つて、宛然(ヱンゼン)たる呉国色をこゝに劃(クワク)し、人の気風は軽敏で利に明るく、また進取的であつた。
彗星的な風雲児、江東の小覇王孫策は、当年まだ二十七歳でしかないが、建安四年の冬には、廬江(ロカウ)を攻略し、また黄祖、劉勲(リウクン)などを平げて恭順を誓はせ、豫章(ヨシヤウ)の太守もまた彼の下風について降を乞うて来るなど——隆々たる勢ひであつた。
彼の臣、張紘は、いくたびか都へ上り、舟航して、呉と往来してゐた。
孫策の「漢帝に奉るの表(ヘウ)」を捧げて行つたり、また朝延への貢物(みつぎもの)を持つて行つたのである。
孫策の眼にも漢朝はあつた。けれど、その朝門にある曹操は眼中になかつた。
孫策はひそかに、大司馬の官位をのぞんでゐたのである。けれど、容易にそれを許さないものは、朝廷でなくて、曹操だつた。
甚だおもしろくない。
だが、並び立たざる両雄も、あひての実力は知つてゐた。
「彼と争ふは利でない」
曹操は、獅子の児(こ)と嚙みあふ気はなかつた。
しかし獅子の児に、乳を与へ、冠を授けるやうなことも、極力回避してゐた。
たゞ手なづけるを上策と考へてゐた。——で、一族曹仁の娘を、孫策の弟にあたる孫匡(ソンケフ)へ嫁入らせ、姻戚政策を取つてみたが、この程度のものは、ほんの一時的な偽装平和を彩つた迄(まで)にすぎない。日がたつと、いつとはなく、両国のあひだには険悪な気流がみなぎつてくる。乳を与へなくても、獅子の児は牙を備へてきた。
呉郡の太守に、許貢(キヨコウ)といふ者がある。その家臣が、渡江の途中、孫策の江上監視隊に怪しまれて捕はれ、呉の本城へ送られて来た。
取調べてみると、果(はた)して、密書をたづさへてゐた。
しかも、驚くべき大事を、都へ密告しようとしたものだつた。
(呉の孫策、度々、奏聞をわづらはし奉り、大司馬の官位をのぞむといへども、御許容なきをうらみ、つひに大逆を兆(きざ)し、兵船強馬をしきりに準備し、不日都へ攻めのぼらんの意(こゝろ)あり、疾(と)くよろしくそれに備へ給へ)
かういふ内容である。
孫策は怒つて、直ちに、許貢の居館へ詰問の兵をさし向けた。そして許貢をはじめ妻子(サイシ)眷族(ケンゾク)をことごとく誅殺してしまつた。
阿鼻叫喚のなかから、あやふくも逃げのがれた三人の食客があつた。当時、どこの武人の家でも、有為な浪人はこれをやしきにおいて養つておく風があつた。その食客三人は、日頃ふかく、許貢の恩を感じてゐたので、
「何とかして、恩人の讐(かたき)をとらねばならぬ」
と、ともに血を啜(すゝ)りあひ、山野にかくれて、機を窺つてゐた。
孫策はよく狩猟(かり)にゆく。
淮南の袁術に身を寄せてゐた少年時代から、狩猟は彼の好きなものの一つだつた。
その日も——
彼は、大勢の臣をつれて、丹徒(タント)といふ部落の西から深山にはいつて、鹿、猪、などを、趁(お)つてゐた。すると茲(こゝ)に、
「今だぞ、復讐は」
「加護あれ。神仏」
と、かねて彼を狙つてゐた例の食客浪人は、箭(や)に毒を塗り、槍の穂を石で研(みが)いて、孫策の通りさうな藪陰にかくれ、一心天を念じてゐたのであつた。
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次回 → 于吉仙人(二)(2025年5月6日(火)18時配信)