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周倉はひとり関羽に別れて、臥牛山の奥へはいつて行つた。そこには、さきに機会を待てと止め(とゞ)てある裴元紹が、約五百の手勢と五、六十匹の馬をもつてたて籠つてゐる。関羽はその裴元紹にむかつて、
「近いうちに自分が皇叔をお迎へして帰りにはこゝを通るから、その折に、一勢を引(ひき)具(ぐ)して、途中でお迎へしたがよからう」
と、伝言してやつたのである。
孫乾はそばでそれを聞いてゐたので、関羽が誰にたいしても、かならず約束をたがへないのに感心してゐた。
日を経て関羽と孫乾は、やがて冀州の堺(さかひ)まで来た。
明日(あした)からの道は、もう袁紹の領土である。孫乾は大事を取つて、
「あなたは、この辺で仮の宿をとつて、待つてゐて下さい。拙者はたゞひとり、冀州に入つて、ひそかに皇叔にお会ひし、計をめぐらして脱れて来ますから」
と、告げて別れた。
関羽はわづかな従者と共に、近くの村へ入つてたゞの旅人のごとく装ひ、村のうちでもたゝずまひのいゝ一軒の門をたゝいた。
主(あるじ)は、快く泊めてくれた。数日居るうちに、その心根も分つたので、何かのはなしの折、主の問ふまゝ、自分は関羽であると姓氏を打明けた。
主は、驚きもしたり、また非常な歓びを示して、
「それはそれは何たる奇縁でせう。てまえの家の氏(うじ)も関氏で、わたくしは関定(クワンテイ)といふものです」
と、二人の子息を呼んで、ひきあはせた。
どつちも秀才らしい良い息子だつた。兄は関寧(クワンネイ)といつて、儒学に長じ、弟のはうは関平(クワンペイ)とて、武藝に熱心な若者だつた。
二十騎の従者をこの家(や)にかくして、関羽はひたすら孫乾(ソンカン)の便りを待つてゐた。——その孫乾(ソンカン)は、冀州へまぎれ入つて、やがて首尾よく玄徳の居館をさぐり当て、漸く近づくことができた。
その後の一部始終から一族の健在を聞いて、玄徳のよろこびは何に譬(たと)へんやうもなかつた。しかし今にして悔ゆることは、この冀州の領内へわざ/\帰つてしまつた事である。
「もう一度の脱出を、どうして果(はた)さうか。何せい、わしの行動はいま、袁紹や藩中の者共から、注目されてゐる折ではあるし……」
玄徳の心は、飛び立つほどだつたが、身は鉄鎖(テツサ)に囲まれてゐた。
「……さうだ、簡雍の智恵をかりてみよう。簡雍は近ごろ、袁紹にも信頼されてをるらしいから」
と急に使をやつて、呼びよせた。
「えつ、簡雍もこゝに来てゐたのですか」
孫乾は、初耳なので、驚きの目をみはつた。
その簡雍も、以前の味方だ。聞けば近ごろ玄徳を慕つて、この冀州へ来てゐたが、さう見えては袁紹の心證がよくあるまいと察して、わざと玄徳には冷淡にして、努めて袁紹の気に入るやう城中に仕へてゐるといふことだつた。
さういふ間がらなので、簡雍はちよつと来てすぐ帰つたが、目的はその短時間に足りてゐた。
簡雍から授けられた策を胸に秘して、玄徳は次の日、冀州城に上(のぼ)り、袁紹に会つてかう説いた。
「曹操とお家との戦ひは、否(いや)応(おう)なく、つひに長期に亘(わた)りさうです、強大両国の実力は伯仲していづれ勝(まさ)れりともいへません。……けれどこゝに外交と戦争とを併行して、荊州の劉表を味方に加へるの策に成功したら、もはや曹操とて完敗の地に立つしかありますまい」
「それはさうだとも。……しかし劉表も、こゝは容易にうごくまい。龍虎ともに傷つけば、かれは兵を用ひずして、漁夫の利を獲(う)る位置にある」
「いや、それが外交です。九郡の大藩荊州を見のがしておくなど愚(グ)ではありませんか」
「それは貴公がいはなくても、とくに気づいて、数度の使者をつかはしたが、劉表あへて結ばうとせんのぢや。この上の使(つかひ)は、わが国威を落すのみであらう」
「いえいえ、不肖玄徳が参れば、期してお味方に加へて見せます。何となれば、私と彼とは、共に漢室の同宗で、いはゞ遠縁の親族にあたりますから」
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次回 → 兄弟再会(三)(2025年5月1日(木)18時配信)