ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 古城窟(こじやうくつ)(四)
***************************************
その晩、山上の古城には、有るかぎりの燭(シヨク)が燈(とも)され、原始的な音楽が雲の中に聞えてゐた。
二夫人を迎へて張飛がなぐさめたのである。
「こゝから汝南へは、山ひとこえですし、もう大船に乗つた気で、御安心くださるやうに」
ところが、その翌日。望楼に立つてゐた物見が、
「弓箭(ゆみや)をたづさへた四、五十騎の一隊が驀(まつ)しぐらに城へ向つて寄せてくる」
と、城中へ急を告げた。張飛は聞いて、
「何奴?何ほどのことかあらん」
と、自身で南門へ立ち向つた。騎馬の弓箭(キウセン)隊は、ことごとくそこで馬をおりてゐた。見れば、徐州没落のとき別れたきりの味方、糜竺、糜芳(ビハウ)の兄弟が、そのなかに交じつてゐる。
「やあ、糜兄弟ではないか」
「オヽやはり張飛だつたか」
「どうしてこれへは?」
「されば、徐州このかた皇叔のお行方をたづねてゐたが、皇叔は河北にかくれ、関羽は曹操に降服せりと、頼りない便りばかり聞いて、如何(いか)にせむかと、雁(かり)の群れの如く、かうして一族の者共と、諸州を渡りあるいてゐたところ、近ごろこの古城に、虎髯(コゼン)の暴王が兵をあつめ頻(しき)りと徐州の残党をあつめてをると聞き、さては足下にちがひあるまいと、急にこれへやつて来たわけだが」
「そいつは、よく来てくれた。関羽はすでに都を脱して、昨夜からこの城中にをる」
「えつ、関羽もをるとか」
「皇叔の二夫人もおいで遊ばす」
「それは意外だつた」
糜竺兄弟は、さつそく通つて、二夫人に謁し、また、関羽に会つて、交々(こも/゛\)、久濶の情を叙した。
二夫人は、人々にたいして、許都逗留中の関羽の忠節をつぶさに語つた。
張飛は今さら面目なげに、感嘆してやまなかつた。
そして羊を屠(ほふ)り山菜を煮て、その夜も酒宴をひらいた。
けれど関羽は、
「こゝに家兄皇叔がおいであれば、どんなにこの酒も美味(うま)からう。家兄を思ふと、酒も喉(のど)を下らない」
と、時折嘆息してゐた。
孫乾(ソンケン)が云つた。
「もう汝南は近いのですから、明日でも、早速あなたと行つて、皇叔にお目にかゝりませう」
関羽としては、何よりそれを望んでゐたのである。夜が明けるか明けぬうちに、彼はもう孫乾(ソンケン)と連れ立つて、汝南へ道を急いでゐた。
そして、汝南城へ行つて、劉辟に対面したところ、劉辟がいふには、
「いや、その劉玄徳どのなら、四日ほど前までこゝに居られたが、城中の小勢を見て、この勢力では事を成すに至難だと仰(おほせ)られ——また各々の消息も、皆目知れないので、ふたゝび河北の方へもどつて行かれた。まつたく一足ちがひ——」
しきりと惜(をし)がつて劉辟はいふのである。
一歩の差が時によると千里の距(へだ)てとなる例もまゝある。関羽は憂ひを面(おもて)にみなぎらし、怏々(ワウ/\)と汝南を去つた。
むなしく古城へ帰つて来たが、孫乾はなぐさめて、
「この上は、拙者がもう一度、河北へ行つてみませう。御心配あるな。かならずお伴(つ)れ申しますから」
すると張飛が、河北へなら自分が行かう、と進んで云ひだした。けれど関羽は、
「いま、この一つの古城は、われわれ家なき義兄弟(きやうだい)にとつては、重要な拠点だから君は断じてこゝを動いてはいかん」と、遂に孫乾(ソンケン)を案内とし、わづかの従者をつれて、関羽は遠く河北まで、玄徳をさがしに立つた。
その途中、臥牛山の麓(ふもと)まで来ると、彼は周倉を呼んで、
「いつぞや、こゝで別れた裴元紹のところへ、使(つかひ)に参つてくれい」
と、一言を託した。
***************************************
次回 → 兄弟再会(二)(2025年4月30日(水)18時配信)
昭和16年(1941)4月30日(水)付夕刊は、配達日の4月29日が天長節(天皇誕生日)だったので休刊でした。これに伴い、明日の配信はありません。