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身構へる張飛のまえを〔ひら〕と避けて、関羽は赤兎馬の背から振向いた。
「——あれ見ろ、張飛。いま此方(このはう)があれへ来る追手の大軍を蹴ちらして、おぬしに詐(いつは)りなき證拠を見せてやるから」
「さては。彼方へ寄せて来たのは曹操の部下だな、貴様と諜(しめ)しあはせて、この張飛を討ちとらんためだらう」
「まだ疑つてゐるか。その疑ひは、眼のまへで晴らしてみせる。しばらくそこで待つてをれ」
「よしつ、然らば、見物してやらう。だが、俺の部下が三通の鼓を打つあひだに、追手の大将の首をこれへ持つて来ないときは、俺はたゞちに、俺の意志に依つて行動するからさう思へ」
「よろしい」
関羽はうなづいて、約半町ほど駒をすゝめ、見まもる張飛や二夫人の車をうしろに、敵勢を待ちかまへてゐた。
彪々(ヘウ/\)と煙る馬車のうへに、三(サン)旒(リウ)の火焔旗(クワエンキ)をなびかせて、追撃の急速兵はたちまち関羽のまへに迫つた。
関羽は、なほ、不動のすがたを守つたまゝ、
「来(きた)れるは、何者かつ」
と、二度ほど、大音をあげただけだつた。
すると、鉄甲にきびしく鎧(よろ)つた一名の大将が、真つ先に出て、
「われは是(これ)猿臂将軍の蔡陽である。汝、各地の関門をやぶり、よくもわが甥の秦琪まで殺しをつたな。汝の首を取つて、丞相に献じ、功として、汝の寿亭侯は此方(こつち)にもらひうける所存で参つた。覚悟せよ、流亡の浮浪人」
「笑ふべし。豎子(ジユシ)つ」
関羽が、云ふやいな、うしろの方で、張飛の部下が、高らかに一(イツ)鼓(コ)を打ち鳴らした。
二鼓、三鼓——
三通の鼓声がまだ流れ終らないうちに、関羽はもうどよめく敵の中から身を脱して、張飛のまへに駈けもどつてゐた。
そして、
「それ、蔡陽が首!」
と、張飛の足もとへ、首を抛(はふ)り投げると、ふたゝび敵を蹴ちらしに駈けて行つた。
張飛は、あとを追ひかけて、
「見とゞけた。やはり関羽はおれの兄貴。おれも助勢するぞ」
と、蔡陽の軍を、滅茶苦茶に踏みつぶした。
さなきだに、大将を失つて浮足立つ残軍、なんでひと支(さゝ)へもできよう。羽、飛両雄の馬蹄の下に、死骸となる者、逃げ争ふ者、笑止なばかり脆(もろ)い潰滅を遂げてしまつた。
張飛は、一人の旗持(はたもち)を生け捕りにして、引つ吊るして来たが、その者の自白によつて、猶(なほ)さら関羽にたいする疑念は氷解した。
旗持の自白によると、蔡陽は甥の秦琪が黄河の岸で討たれたと聞いて、関羽にたいする私憤やるかたなく、度々曹操へむかつて復讐を願ひ出たが、曹操はゆるさなかつた。——だが、折から汝南の劉辟を討伐に下る軍勢が催されたので、蔡陽にもその命が下つた。
蔡陽は命をうけると、即刻、許都を発したが、汝南へは向はず、途中へ来てから、われは関羽を討つため追撃して来たのだと公言した。
(関羽を生かしておくのは、将来とも丞相のお為にならない。丞相は一時の情で関羽を放してしまつたが、やがてすぐ後悔するに極(きま)つてゐる)
と、いふ独断からであつた。
それらの仔細を知ると、張飛は間(ま)が悪さうに、関羽の前へ来て、しきりと顔ばかり撫(な)でまはしてゐた。
「どうも、相済まん。兄貴、悪く思つてくれるな。……ともかく、おれの古城へ来てくれ。落着いてゆつくり話さう」
「わかつたか、それがしに二心のないことが」
「わかつた/\。もう云ふな」
張飛は大いに〔てれ〕た顔して、三千の手下に向ひ、二夫人の御車を擁して、谷間を越え渡れと大声で下知しはじめた。
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次回 → 兄弟再会(一)(2025年4月28日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。