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前回はこちら → 古城窟(二)
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𤄃(ひろ)い沢を伝はつて、千餘の兵馬が此方(こなた)へさして登つて来る。二夫人の車を停めてゐた扈従の人々は
「あれ/\、張飛どのが、さつそく勢を率ゐて迎へに来る——」
と、喜色をあらはして〔どよめき〕合つてゐた。
ところが、やがてそこへ駈け上つて来た張飛は、奔馬の上に蛇矛(ジヤボウ)を横たへ、例の虎髯(とらひげ)をさかだてゝ
「関羽はどこにゐるか。関羽、関羽つ」
と、吠えたてゝ、近寄りも出来ない血相だつた。
関羽は、声を聞いて、
「おう、張飛か。関羽はこれにをる。よくぞ無事であつたな」
と、何気なく進んで来ると、張飛は、やにはに矛(ほこ)を突ツかけて、落雷が木を裂くやうに、
「居たかつ、人非人!」
と、奮ひ蒐(かゝ)つて来た。
関羽は驚いて、猛烈な彼の矛さきを躱(かは)しながら、
「何をするつ張飛。人非人とは何事だ」
「人非人でわからなければ、不義者といはう。何の面目あつて、のめのめ俺に会ひに来たか」
「怪しからぬことを。この関羽がいかなる不義を働いたか」
「だまれつ。曹操に仕へて、寿亭侯に封ぜられ、さんざ富貴をむさぼつて、義を忘れ果てながら、許都の風向きが悪くなつたか、これへ落ちて来てぬけ/\俺をも欺(あざむ)かうとするのだらう。ひとたびは義兄弟(けいてい)の誓ひはしたが、犬畜生にも劣るやつを、兄貴とは立てられない。さあ勝負をしろ、勝負を!汝を成敗したら俺は生きてゐるが汝が生きてゐるくらゐなら俺はこの世に居たくないんだ。さあ来い関羽!」
「あはゝゝ、相変らず粗暴な男ではある、此方(このはう)の口からいひわけはせぬ。二夫人の御簾(ギヨレン)を拝して、篤(トク)と、許都の事情をうけたまはるがよい」
「おのれ、笑つたな」
「笑はざるを得ない」
「盗(ぬす)ツ人(と)の小謡(こうた)といふやつ。もう堪忍ならぬ」
〔りう〕/\と矛(ほこ)をしごいて、ふたたび関羽に突きかゝる様子に、車上の二夫人は思はず簾(レン)を払つて
「張飛、張飛。なんで忠義の人に、さは怒りたつぞ。ひかへよ」
と、さけんだ。
張飛は、振向いただけで、
「いや/\御夫人(ギヨフジン)、驚きたまふな。この不義者を誅罰(チウバツ)してから、それがしの古城へお迎へします。こんな二股膏薬に欺(だま)されてはいけませんぞ」
と、云ひ払つた。
甘夫人は悲(かなし)んで、出ない声をふりしぼり、張飛の誤解であることを早口になだめたが、落着いて他のことばに耳をかしてゐるやうな張飛ではない。
「関羽がどう云ひ飾らうと、真の忠臣ならば、二君に仕へる道理はない」
と、肯(き)かないのである。
ところへ、後(あと)から来た孫乾は、この態(テイ)を見て、あれほど自分からも説明したのにと、腹を立つて、
「わからずやの虎髯(とらひげ)め。粗暴もいゝ加減にいたせ。関羽どのが一時、曹操に降つたのは、死にもまさる忍苦と遠謀があつてのことだ。汝の如き短慮無策にはわかるまいが。謹んで矛をうしろに置き羽将軍のことばを落着いて聞くがいゝ」
と傍らから呶鳴つた。
張飛は、よけい赫怒(カクド)して、
「さては、汝ら一つになつて、われらを生捕らんものと、曹操の命をおびて来たものだらう。よしその分ならば」
と、息(いき)り立つを、関羽は飽(あく)まで宥(なだ)めて、
「おぬしを生捕るためならば、もつと兵馬を引き具して来ねばなるまい。見よ、それがしの従へてゐる士卒は、二夫人の御車を推す人数しかをらんではないか。何といふ邪推ぶかさよ。はゝゝ」
と、笑つたが、時も時、後方から一(イツ)彪(ペウ)の軍馬が、地を捲いてこれへ襲(よ)せて来た。さてはとばかり張飛はいよ/\疑つて、本格的に身(み)構(がまへ)をあらためた。
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次回 → 古城窟(四)(2025年4月26日(土)18時配信)