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張遼はあとに残つて、関羽へ、
「にはかに道を更(か)へられ、いつたいどこへ行くおつもりか」
と、解(げ)せぬ顔できいた。
関羽は、あからさまに、
「玄徳の君には、袁紹のもとを脱し、もうそこには居給はぬと途中で聞いたもので」
「おう、さうですか。もし彼(か)の君の所在が、どうしても知れなかつたら、ふたゝび都へ回(かへ)つて、丞相の恩遇をうけられたがいゝ」
「武人一歩を踏む。なんでまた一歩を回(かへ)しませうや。舌をうごかすのさへ、一言金鉄の如しといふではありませんか。——もし御所在の知れぬときは、天下を遍(あまね)く巡つてもお会ひするつもりでござる」
張遼は黙々と都へ帰つた。別れる折、関羽は言(こと)伝(づ)てに、曹操の信義を謝し、また大切な部下を殺(あや)めたことを詫びた。
孫乾に守られて、車はもう先へ行つてゐた。しかし赤兎馬の脚で追ひつくことは容易であつた。
さきの車も、あとの彼も、冷(つめた)い通り雨に会つて濡れた。——
で、その晩、泊めてもらつた民家の炉で、人々は衣類を火にかざし合つた。
こゝの主(あるじ)は、郭常(クワクジヤウ)といふ人の良ささうな人物だつた。羊を屠(ほふ)つて焙(あぶ)り肉にしたり、酒を温めて、一同をなぐさめたりしてくれた。
田舎家ながら後堂もある。
二夫人はそこにやすんだ。
衣服も乾いたので、関羽、孫乾は、屋外へ出て、馬に秣(まぐさ)を飼つたり、扈従の歩卒たちにも、酒を頒(わ)けてやつたりしてゐた。
——と。この家の塀の外から、狐のやうな疑ひ深い眼(まなこ)をした若者が、しきりに覗いてゐたが、やがて無遠慮に入つて来て、
「なんだい、今夜の厄介者は」
と、大声で云ひ放つてゐた。
「しつ……。高貴なお客人にたいして、何たる云ひぐさだ。莫迦(バカ)」
主の郭常はたしなめてゐたが、あとでその若者のゐない折、炉辺を囲みながら、涙をながして、関羽と孫乾に愚痴をこぼした。
「さきほどの〔がさつ〕者は、実は、倅(せがれ)でございますが、あのとほり明け暮れ狩猟(かり)ばかりして、少しも農耕や学問はいたしません。どうも手におへない困り者で」
「なに、さう見限つたものでもないよ。狩猟も武のひとつ、儒学や家事の手伝ひも、いまに励み出さうし」
ふたりが、慰めてやると、
「いえ/\狩猟(かり)だけなら、まだようございますが、村のあぶれ者と〔ばくち〕はするし、酒、女、何でも止めどのない奴ですから。……時には、わが子ながら、あいそが尽きる事も、一度や二度ではございません」
その晩、みな寝しづまつてから、一つの事件が起(おこ)つた。
五、六人の悪党が忍び込んで、厩(うまや)の赤兎馬を盗み出さうとしたところ、悍気(カンキ)のつよい馬なので、なかの一人が跳ねとばされたらしく、その物音に、みな眼をさまして大騒ぎとなつたのだつた。
しかも、孫乾や、車の扈従たちが包囲して捕まへてみると、その中のひとりは宵にちらと見たこの家の〔のら〕息子だつた。珠数(ジユヅ)つなぎに縛りあげて、
「斬つてしまへ」
と、孫乾が息まいてゐるとき、主の郭常は、関羽のところに慟哭しながら転げこんで来た。
「お慈悲です。あんな出来損ひではございますが、てまへの老妻には、あれがゐなくては、生きがひもないくらゐ、可愛がつてゐる奴でございます。どうぞお慈悲をもつて、あれの一命だけは」
と、十ぺんも莚(むしろ)へ額をすりつけて詫びた。
関羽の一言で、泥棒たちは、放された。
郭常夫婦はわが子の恩人と、あくる朝も、首をならべて百拝した。
「こんな良い親をもちながら、勿体ないことを知らぬ息子だ。これへ呼んでくるがいゝ、置き土産にそれがしが訓戒を加へてやらう」
関羽のことばに、老夫婦は欣(よろこ)んで連れに行つたが、〔のら〕息子は、家の中にゐなかつた。召使ひのことばによると、早暁また悪友五、六人と組んで何処(どこ)へともなく、出かけてしまつたといふことであつた。
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次回 → のら息子(四)(2025年4月22日(火)18時配信)