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市外の函門(クワンモン)は、ゆうべから物々しく固められてゐた。
常備の番兵に、屈強な兵が、千騎も増されて附近の高地や低地にも、伏勢がひそんでゐた。
関羽が、東嶺関を破つて、孔秀を斬り、これへかゝつて来るといふ飛報が、はやくも伝へられてゐたからである。
——とも知らず、やがて関羽は尋常に、その前に立つて呼ばはつた。
「それがしは漢の寿亭侯関羽である。北地へ参るもの、門をひらいて通されい」
聞くやいなや、
「すは、来たぞ」
と、鉄扉と鉄甲は犇(ひし)めいた。
洛陽の太守韓福は、見るからにもの/\しい扮装(いでた)ちで諸卒のあひだから颯(サツ)と馬をすゝめ、
「告文を見せよ」
と〔のツけ〕から挑戦的に云つた。
関羽が、持たないといふと、告文がなければ、私(ひそか)に都を逃げて来たものにちがひない。立ち去らねば搦(から)め捕るのみと——豪語した。
彼の態度は、関羽を怒らせるに充分だつた。関羽は、さきに孔秀を斬つて来たことを公言した。
「汝も首を惜しまざる人間か」
と、云つた。
そのことばも終らぬまに、四面に銅鑼(ドラ)が鳴つた。山地低地には金鼓(キンコ)がとゞろいた。
「さてはすでに、計(はかりごと)をまうけて、われを陥さんと待つてゐたか」
関羽はいつたん駒を退いた。
逃げると見たか、
「生(いけ)擒(ど)れ。やるなつ」
とばかり、諸兵はやにはに追ひかけた。
関羽はふり向いた。
碧血(ヘキケツ)紅漿(コウシヤウ)、かれの一颯(イツサツ)一刃(イチジン)に、あたりは忽ち彩られた。
孟坦(マウタン)といふ韓福の一部将はすこぶる猛気の高い勇者だつたが、これも関羽のまへに立つては、斧にむかふ蟷螂(かまきり)のやうなものにしか見えなかつた。
「孟坦が討たれた!」
怯(ひる)み立つた兵は、口々に云ひながら、函門のなかへ逃げこんだ。
太守韓福は門のわきに馬を立てて、唇を嚙んでゐたが、群雀(グンジヤク)を追ふ鷲のやうに馳けて来る関羽を目がけて、〔へうつ〕と弓につがへてゐた一矢を放つた。
矢は関羽の左の臂(ひじ)に中(あ)たつた。
「おのれ」
と、関羽の眼は矢の来た途(みち)をたどつて、韓福のすがたを見つけた。
赤兎馬は、口をあいて馳け向つて来た。韓福は怖れをなして、俄(にはか)に門のうちへ駒を翻へさうとしたがその鞍尻(くらじり)へ、赤兎馬が嚙みつくやうに重なつた。
どすつ—と、磚(かはら)のうへに、首がころげ落ちた。韓福の顔だつた。あたりの部下は胆をひやして、われがちに赤兎馬の蹄(ひづめ)から逃げ散つた。
「いでや、このひまに!」
関羽は、血ぶるひしながら、遠くにゐる車を呼んだ。〔わだち〕は、血のなかを、ぐわら/\と顫(おのゝ)き旋(めぐ)つて、洛陽へ這(は)入(い)つてしまつた。
どこからともなく、車をめがけて、矢の飛んで来ることは、一時は頻(しき)りだつたが、太守韓福の死と、勇将孟坦の落命が伝はると、全市恐怖にみち、行く手をさへぎる兵もなかつた。
市城を突破して、ふたゝび山野へ出るまでは、夜もやすまずに車を護つて急いだ。簾中(レンチウ)の二夫人も、この一昼夜は繭の中の蛾のやうに、抱きあつたまゝ、恐怖の目をふさぎ通してゐた。
それから数日、昼は深林や、沢のかげに眠つて、夜となると、車をいそがせた。
沂水関(キスヰクワン)へかゝつたのも、宵の頃であつた。
こゝには、もと黄巾の賊将で、のちに曹操へ降参した辨喜(ベンキ)といふものが固めてゐた。
山には、漢の明帝が建立した鎮国寺という古刹(コサツ)がある。辨喜は、部下の大勢をこゝに集めて、
「——関羽、来(きた)らば」
と、何事か謀議した。
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次回 → 五関突破(三)(2025年4月15日(火)18時配信)