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前回はこちら → 関羽千里行(六)
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胡華の家を立つてから、破蓋の簾車(レンシヤ)は、日々(にち/\)、秋風の旅をつゞけてゐた。
やがて洛陽へかゝる途中に、一つの関所がある。
曹操の与党、孔秀(コウシウ)といふものが、部下五百餘騎をもつて、関門をかためてゐた。
「こゝは三州第一の要害。まづ、事なく通りたいものだが」
関羽は、車を駐(とゞ)めて、たゞ一騎、先に馳けだして呶鳴つた。
「これは河北へ下る旅人でござる。ねがはくは、関門の通過をゆるされい」
すると、孔秀自身、剣を扼(やく)して、立ちあらはれ、
「将軍は雲長関羽にあらざるか」
「しかり。それがしは、関羽でござる」
「二夫人の車を擁して、いづれへ行かれるか」
「申すまでもなく、河北におはすと聞く故主玄徳のもとへ立(たち)帰る途中であるが」
「さらば、曹丞相の告文をお持ちか」
「事(こと)火急に出で、告文はつい持ち忘れてござるが」
「たゞの旅人なれば、関所の割符(わりふ)を要し、公(おほやけ)の通行には告文なくば関門を通さぬことぐらゐは、将軍も御承知であらう」
「帰る日が来(きた)ればかならず帰るべしとは、かねて丞相とそれがしとのあひだに交してある約束です。なんぞ、掟に依らうや」
「いや/\、河北の袁紹は、曹丞相の大敵である。敵地へゆく者を、無断、通すわけにはまゐらぬ。……しばらく門外に逗留(とうりゆう)したまへ。その間(カン)に、都へ使(つかひ)を立て、相府の命を伺つてみるから」
「一日も心のいそぐ旅。いたづらに使(つかひ)の往還を待つてはをられん」
「たとひ、何と仰せあらうと、丞相の御命に接せぬうちは、こゝを通すこと相ならん。しかも今、辺境すべて、戦乱の時、何で国法をゆるがせにできようか」
「曹操の国法は、曹操の領民と、敵人に掟されたもの。それがしは、丞相の客にして、領下の臣でもない。敵人でもない。——強(た)つて、通さぬとあれば、身をもつて、踏みやぶるしかないが、それは却(かへ)つて足下の災(わざはひ)とならう。快く通したまへ」
「ならんといふに、〔しつこい〕やつだ。もつとも、其方(そのはう)の連れてゐる車のものや、扈従(コジウ)のもの総(すべ)てを、人質としてこゝに留めておくならば、汝一人だけ、通ることをゆるしてやらう」
「左様なことは、此方(このはう)としてゆるされん」
「然らば、立(たち)帰れ」
「何としても?」
「くどい!」
云ひ放して、孔秀は、関門を閉ぢろと、左右の兵に下知した。
関羽は、憤然と眉をあげて、
「盲夫(マウフ)つ、これが見えぬか」
と、青龍刀をのばして、彼の胸板へ擬した。
孔秀は、その柄を握つた。餘りにも対手(あひて)を知らず、おのれを知らないものだつた。
「猪口才(チヨコザイ)な」
と、罵りながら、部下の関兵へ大呼して、狼藉者を召捕れとわめいた。
「これまで」
と、関羽は青龍刀を引いた。
〔うか〕と、柄を握つてゐた孔秀は、あつと、鞍から身を浮かして、佩剣(ハイケン)へ片手をかけたが、とたんに、関羽が一(イツ)吼(ク)すると、彼の体軀は真二つになつて、血しぶきと共に斬り落されてゐた。
あとの番卒などは、ものゝ数ではない。
関羽は、縦横に薙(な)ぎちらして、そのまに二夫人の車を通し、さて、大音に云つて去つた。
「覇陵橋上、曹丞相と、暇(いとま)をつげて、白日こゝを通るものである。なんで汝らの科(とが)とならう。あとにて、関羽今日、東嶺関(トウレイクワン)をこえたりと、都へ沙汰をいたせばよい」
その日、車の蓋(おほひ)には、ばら/\と白い霰(あられ)が降つた。——次の日、また次の日と、車の〔わだち〕は一路官道を急ぎぬいて行く。
洛陽——洛陽の城門は、はや遠く見えて来た。
そこも勿論、曹操の勢力圏内であり、彼の諸侯のひとり韓福(カンフク)が守備してゐた。
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次回 → 五関突破(二)(2025年4月14日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。