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前回はこちら → 燈花占(とうくわせん)(四)
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大戦は長びいた。
黄河沿岸の春も熟し、その後袁紹の河北軍は、地の利をあらためて、武陽(河北省・広平附近)の要害へ拠陣を移した。
曹操もひとまづ帰洛して、将兵を慰安し、一日慶賀の宴をひらゐた。
その折、彼は諸人の中で、
「延津の戦では、予が〔わざ〕と兵糧隊を先陣につけて敵を釣る計略を用ひたが、あれを覚つてゐたのは荀攸(ジユンシウ)だけだつた。しかし荀攸も口の軽いのはいけない」
と、思ひ出ばなしなど持出して大いに賑(にぎは)つてゐたが、そこへ汝南(ジヨナン)(河南省・汝南)から早馬が到来して一つの変を報じた。
汝南には前から劉辟(リウヘキ)、龔都(ケウト)といふ二(ニ)匪賊(ヒゾク)がゐた。もと黄巾の残党である。
かねて曹洪を討伐に遣(や)つてあつたが、匪軍の勢ひは猛烈で洪軍は大痛手をうけ、いまなほ、退却中といふ報告であつた。
「ぜひ有力な援軍を下し給はぬと、汝南地方は黄匪(クワウヒ)の猖獗(シヤウケツ)にまかせ、後々(あと/\)大事にいたるかも知れません」
と、早打(はやうち)の使者はつけ加へた。
ちやうど、宴の最中、人々騒然と議に湧いたが、時に関羽が、
「願はくば、それがしをお遣(や)りください」
と、申し出た。
曹操は、歓びながら、
「おゝ、羽将軍が行けば、たちどころに平定しようが、先頃から御辺の勲功は夥(おびたゞ)しいのに、まだ予は、君に恩賞も与へてない。——然(しか)るにまたすぐ戦野に出たいとは、どういふ御意志か」
と、すこし疑つて訊ねた。
関羽は、答へて云ふ。
「匹夫は玉殿に耐へずとか、生来少し無事でゐると、身に病が生じていけません。百姓は鍬(くは)と別れると弱くなるさうですが、此方にも無事安閑は、身の毒ですから」
曹操は、呵々(カヽ)と大笑しながら、膝をたゝいて、——壮なるかな、さらば参られよと、五万の軍勢を与へ、于禁、楽進のふたりを副将として添へてやつた。
あとで、荀彧は、曹操に意見した。
「よほどお気をつけにならんと、関羽は行つた儘(まゝ)、遂に帰つて来ない事かも知れません。始終容子を見てゐるに、まだ玄徳を深く慕つてをるやうです」
曹操も、反省して、
「さうだ、こんど汝南から帰つてきたら、もう餘り用ひないことにしよう」
と、うなづいた。
汝南に迫つた関羽は、古刹の一院に本陣をおいて、あしたの戦に備へてゐたが、その夜、哨兵の小隊が、敵の間諜らしい怪しげな男を二名捕まへて来た。
関羽が前に引据ゑて、二名の覆面を脱(と)らせてみると、そのひとりは、何ぞ計らん、共に玄徳の麾下にゐた旧友の孫乾なので、
「やあ、どうしたわけだ」
と、びつくりして、自身彼の縛(いまし)めを解き、左右の兵を退けてから、二人きりで旧情を温め合つた。
関羽は何よりも先にたづねた。
「其許(そこもと)は、家兄玄徳のお行方を知つてゐるだらう。いま何処(どこ)にをられるか」
「されば、徐州離散の後、自分もこの汝南へ落ちのびて来て、諸所流浪してゐたが、ふとした縁から劉辟、龔都の二頭目と親しくなり、匪軍のなかに身を寄せてゐた……」
「や。では敵方か」
「ま、待ちたまへ。——ところがその後、河北の袁紹からだいぶ物資や金が匪軍へまはつた。曹操の側面を衝けといふ交換条件で—。そんなわけで折々河北の消息も聞えてくるが、先頃、或る確(たしか)な筋から、御主君玄徳が、袁紹を頼まれて、河北の陣中に居られるといふことを耳にした。それは確実らしいのだ。安んじ給へ。いづれにせよ、御健在は確実だからな」
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次回 → 風の便り(二)(2025年3月29日(土)18時配信)