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前回はこちら → 黄河を渡る(一)
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文醜は、顔良の弟で、また河北の名将のひとりであつた。
「おゝ、先陣を望み出たは文醜か。健気(けなげ)々々、そちならで誰か顔良の怨みをそゝがう。すみやかに行け」
袁紹は激励して、十万の精兵をさづけた。
文醜は、即日、黄河まで出た。
曹操は、陣をひいて、河南に兵を布いてゐる。
「敵にさしたる戦意はない、恟々(キヨウ/\)とたゞ守りあるのみだ」
旌旗、兵馬、十万の精鋭は、無数の船にのり分れて、江上を打渡り、黄河の対岸へ攻め上つて行つた。
沮授は心配した。
袁紹を諫めて、
「どうも、文醜の用兵ぶりは、危なくて見てゐられません、機変も妙味もなく、たゞ進めばよいと考へてゐるやうです。——いまの上策としては、まづ官渡(河南省・開封附近)と延津(エンシン)(河南省・延津)の両方に兵をわけて、勝つに従つて徐々押しすゝむに限りませう。それなら過ちはありません。——それをば軽忽にも黄河を打渡つて、もし味方の不利とでもならうものなら、それこそ生きて帰るものはないでせう」
諄々(ジユン/\)と、説いた。
人の善言を肯(き)かないほど頑迷な袁紹でもないのに、なぜかこの時は、ひどく我意を出して、
「知らないか。——兵ハ神速(シンソク)ヲ貴(タツト)ブ——と曰(い)ふと。みだりに舌の根をうごかして、わが士気を惑はすな!」
沮授は、黙然と外へ出て、
「——悠タル黄河、吾レ其(ソレ)ヲ渡ラン乎(カ)」
と、長嘆してゐた。
その日から、沮授は仮病をとなへて、陣務にも出て来なかつた。
袁紹もすこし云ひ過ぎたのを心で悔いてゐたが、迎へを重ねるのも癪(シヤク)なので不問にしてゐた。
その間に玄徳は、
「日頃、大恩を蒙(かうむ)りながら、むなしく中軍にをるは本望でありません。かゝる折こそ、将軍の高恩にこたへ、二つには顔良を討つた関羽と称する者の実否をたしかめてみたいと思ひます。どうか私も、先陣に出していたゞきたい」
と、嘆願した。
袁紹は、ゆるした。
すると、文醜が、単身、軽舸(ケイカ)に乗つて、中軍へやつて来た。
「先陣の大将は、それがし一名では、御安心ならぬといふお心ですか」
「そんな事はない。なぜそんな不平がましいことをいふか」
「でも玄徳は、以前から戦に弱く、弱い大将といふ方では、有名な人間でせう。それにも先陣をお命じあつたのは、いかなるわけか、近ごろ御意を得ぬことで」
「いや/\ひがむな。それはかうだ。玄徳の才力を試さう為にほかならん」
「では、それがしの軍勢を、四分の一ほども分け与へて、二陣に置けばよろしいでせうな」
「むゝ。それでよからう」
袁紹は、彼のいふが儘(まゝ)に、その配置は一任した。
かういふところにも、袁紹の性格は出てゐる。何事にも煮えきらないのである。戦に対して、彼自身の独創と信念がすこしもない。
たゞ彼は、父祖代々の名門と遺産と自尊心だけで、将士に対してゐた。彼の儀容風貌もすこぶる立派なので、平常はその缺陥も目につかないが、戦場となると、遺産や名門や風采では間に合はない。こゝでは人間の正味そのものしかない。総帥の精神力による明断や豫察が、実に、全軍の大きな運命をうごかして来ることになる。
文醜は、帰陣すると、
「袁将軍の命であるから」
と称し、四分の一弱の兵を玄徳に分けて、二陣へ退がらせてしまつた。そして自身は、優勢な兵力をかゝへ、第一陣と称(とな)へて前進を開始した。
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次回 → 燈花占(とうくわせん)(一)(2025年3月24日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。