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前回はこちら → 報恩(ほうおん)一隻手(いつせきしゆ)(三)
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顔良が討たれたので、顔良の司令下にあつた軍隊は支離滅裂、潰走をつゞけた。
後陣の支援によつて、からくも頽勢(タイセイ)をくひ止めたものゝ為に袁紹の本陣も、少(すくな)からぬ動揺をうけた。
「いつたい、わが顔良ほどな豪傑を、たやすく討ち取つた敵とは、何者だらう。よも凡者(たゞもの)ではあるまい」
と、袁紹は、安からぬ顔色で周囲の者へたづねた。
沮授が答へて、
「おそらくそれは、玄徳の義弟(おとうと)の関羽といふ者でせう。関羽のほかには、さう易々(やす/\)と、顔良を斬るやうな勇士はありません」
と、云つた。
しかし、袁紹は、
「そんなはずはあるまい。いま玄徳は、一身をこの袁紹に頼んで、こゝへも従軍してをるのに」
と、疑つて信じなかつたが、念のため、前線から敗走してきた一兵を呼んで、
「顔良を討つたのは、どんな大将であつたか、目撃したところを語れ」
と、糺(たゞ)してみた。
その刹那を見たといふ一兵は、ありの儘(まゝ)に云つた。
「おそろしく赤面で、髯の見事な大将でした。大薙刀(おほなぎなた)でたゞ一撃に顔良将軍を斬ツてしまひ、落着き払つて首を赤い馬の鞍に結びつけて引つ返しながら——雲長関羽の道をさまたげるなと、広言を払つて馳け去りましたんで」
袁紹は何ともいへぬ相貌をして聞いてゐたが、忽ち怒気を表に発して、
「玄徳を引ツぱつて来い!」
と、左右へ怒号した。
諸士は争つて、玄徳の陣屋へ馳け、有無をいはせず、彼の両手をねぢあげて、袁紹のまへに拉(ラツ)して来た。
袁紹は、彼を見るなりいきりたつて、頭から罵つた。
「この恩知らずめ!よくも曹操と内応して、わが大事な勇将を義弟(をとうと)の関羽に討たせをつたな。——顔良の生命(いのち)は回(かへ)るよしもないが、せめて汝の首を刎(は)ねて、顔良の霊を祭るであらう。者共つ、忘恩の人非人を、わしの見てゐる前で斬りすてろ」
玄徳は、敢て畏れなかつた。身に覚えのない出来事だからである。
「お待ちください。平常、御思慮ある将軍が、何とて、けふばかり左様に激怒なされますか。曹操は年来、玄徳を殺さんとしてゐるんです。何で、その曹操を援(たす)けて、いま身を置く恩人の軍に不利を与へませう。……また赤面美髯の武者だつたさうですが、関羽によく似た大将も世間に居ないと限りません。曹操は著名な兵略家ですから、〔わざ〕とさういふ者を探して、お味方の内訌(ナイコウ)を計らんとしたかも知れません。……いづれにせよ、一兵士の片言(かたこと)をとりあげて、玄徳の一命を召されんなどゝいふ事は、餘りに、日頃の御温情にも似げない御短慮ではございますまいか」
さう云はれると、
「むゝ……それも一理ある事」
と、袁紹の心はすぐ宥(なだ)められてしまつた。
武将の大事な資格のひとつは、果断に富むことである。その果断は、するどい直感力があつてこそ生れる。——実に袁紹の短所といへば、その直感の鈍いところにあつた。
玄徳は、なほ辯明した。
「徐州にやぶれて、孤身を御庇護の下に託してからまだ自分の妻子は元より一族の便(たより)すら何も聞いてをりません。どうして関羽と聯絡をとる術(すべ)がありませう。私の日常は、あなたも常に見ておいでゝせう」
「いや、もつともだ。……大体、沮授がよくない。沮授がわしを惑はせた為(た)め、こんなことになつたのだ。賢人、ゆるし給へ」
と、玄徳を、坐上に請(シヤウ)じて、沮授に謝罪の礼をとらせ、そのまゝ敗戦|挽回の策を議し始めた。
すると、侍立の諸将のあひだから、一名の将が前へすゝんで、
「兄顔良に代る次の先鋒は、弟のそれがしに仰せつけ下されたい」
と、呶鳴つた。
見れば、面(おもて)は蟹の如く、犬牙は白く唇を咬み、髪髯(ハツゼン)赤く巻きちゞれて、見るから怖(おそろ)しい相貌をしてゐるが、平常はむツゝりと餘りものを云はない質(たち)の文醜であつた。
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次回 → 黄河を渡る(二)(2025年3月22日(土)18時配信)
昭和16年(1941)3月22日(土)付の夕刊は、前日(配達日)の3月21日(金)が祭日(春季皇霊祭[春分日])のため休刊でした。これに伴い、明日の配信はありません。