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いま、曹操のまはりは、甲鎧燦爛たる諸将のすがたに埋められてゐた。
なにか、布陣図のやうなものを囲んで謀議に鳩首(キウシユ)してゐるところだつた。
「たゞ今、羽将軍が着陣されました」
うしろの方で、卒の一名が高く告げた。
「なに、関羽が見えたか」
よほど欣(うれ)しかつたとみえる。曹操は諸将を打捨てゝ、自身、大股に迎へに出て行つた。
関羽はいま営外に着いて、赤兎馬をつないでゐた。曹操の出迎へに恐縮して、
「召(めし)のお使をうけたので、すぐ拝領のこれに乗つて、快足を試して来ました」
馬の鞍を叩きながら云つた。
曹操はこゝ数日の惨敗を、ことばも飾らず彼に告げて、
「ともかく、戦場を一望してくれ給へ」
と、卒に酒を持たせ、自身、先に立つて山へ登つた。
「なるほど」
関羽は、髯のうへに、腕を拱(く)んで、十方の野を見まはした。
野に満ち/\てゐる両軍の精兵は、まるで蕎麦殻(そばがら)をきれいに置いて、大地に陣形図を描いたやうに見える。
河北軍のはうは、易(エキ)の算木をおいたやうな象(かたち)。魚鱗の正攻陣を布(し)いてゐる。曹操の陣はずつと散らかつて、鳥雲の陣をもつて迎へてゐた。
その一角と一角とが、いまや入り乱れて、揉み合つてゐた。折折、喊声(カンセイ)は天をふるはし、鎗刀の光りは日に瑩(かゞや)いて白い。どよめく度に、白紅(ハクコウ)の旗や黄緑(クワウリヨク)の旆(ハイ)は嵐のやうに揺れに揺れてゐる。
物見を連れたひとりの将が馳けあがつて来た。そして、曹操の遠くにひざまづき、
「またも、敵の顔良が、陣頭へ働きに出ました。——あの通りです。顔良と聞くや、味方の士卒も怯気(をぢけ)づいて、いかに励ましても崩れ立つばかりで」
息を喘(あへ)ぎながら叫んだ。
曹操はうめくやうに、
「さすがは強大国、いまゝで曹操が敵として見た諸国の軍とは、質も装備も段ちがひだ。旺(さかん)なるかな、河北の人馬は」
と、驚嘆した。
関羽は笑つて、
「丞相、あなたのお眼には、さう映りますか。それがしの眼には、墳墓に並べて埋葬する犬鶏(ケンケイ)の木偶(でく)や泥人形のやうにしか見えませんが」
「いや、いや、敵の士気の旺(さかん)なことは、味方の比ではない。馬は龍の如く、人は虎のようだ、あの一旒(イチリウ)の大将旗の鮮(あざや)かさが見えんか」
「はゝゝ。あのやうな虚勢に向つて、金の弓を張り、玉の矢をつがへるのは、むしろ勿体ないやうなものでせう」
「見ずや、羽将軍」
曹操は指さして、
「あの翻(ひら)めく錦旛(キンバン)の下に、いま馬を休めて、静かに、わが陣を睨(ね)めまはしてをる物々しい男こそ、つねにわが軍を悩ましぬく顔良である。なんと見るからに、万夫不当な猛将らしいではないか」
「さうですな。顔良は、背に標(ふだ)を立てゝ、自分の首を売物に出してゐる恰好ではありませんか」
「はて。けふの御辺は、ちと広言が多過ぎて、いつもの謙譲な羽将軍とはちがふやうだが」
「その筈です。こゝは戦場ですから」
「それにしても、餘りに敵を軽んじ過ぎはしまいか」
「否……」
と、身ぶるひして、関羽は凛と断言した。
「決して、広言でない證拠をいますぐお見せしませう」
「顔良の首を予のまへに引ツさげて来ると云はれるか」
「——軍中に戯言なしです」
関羽は、士卒を走らせて、赤兎馬をそこへ曳かせ、盔(かぶと)をぬいで鞍に結びつけると、青龍の偃月刀を大きく抱へて、忽ち山道を馳け降りて行つた。
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次回 → 報恩一隻手(三)(2025年3月19日(水)18時配信)