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白馬の野とは、河北河南の国境にあたる平野をいふ。
四州の大兵は、続々、戦地へ赴いた。
さすが富強の大国である。その装備軍装は、どこの所属の隊を見ても、物々しいばかりだつた。
こんどの出陣にあたつては、各各一族にむかつて、
「千載の一遇だぞ」
と、功名手柄を励ましたが、ひとり沮授の出陣だけは、ひとと違つてゐた。
沮授は田豊と共に、軍部の枢要にある身だつた。そして田豊とは日頃から仲がいゝ。その田豊が、主君に正論をすゝめて獄に下つたのを見て、
「世の中は計りがたい」
と、ひどく無常を感じ、一門の親類をよんで、出立の前夜、家財宝物など、のこらず遺物(かたみ)分けしてしまつた。
そしてその別辞に、
「こんどの会戦は、千に一つも勝目はあるまい。もし僥倖にめぐまれてお味方が勝てば、それこそ一躍、天下を動かさう。敗れたら実に惨たるものだ。いづれにせよ、沮授の生還は期し難いと思ふ」
と、述べて出立した。
白馬の国境には、少数ながら曹操の常備兵がゐた。しかし袁紹の大軍が着いては一たまりもない。馬蹄にかけられてみな逃げ散つてしまつた。
先陣は、冀州の猛将として名ある顔良にも命じられてゐた。勢ひに乗じて、顔良はもう黎陽(レイヤウ)(山西省、黎城附近)方面まで突つこんでゐた。
沮授は、危ぶんで、
「顔良の勇は用ふべしですが、顔良の思慮は任ずべきでありません、それに先陣の大将を二人へ任じられるのも不可(いか)んと思ひますが」
と、袁紹に注意した。
袁紹は、耳をかさない。
「こんな鮮(あざや)かに勝つてゐる戦争を何で変更せよといふのか。あのとほり獅子奮迅のすがたを見せてゐる勇将へ、退けなどゝいつたら、全軍の戦意も萎えてしまふ。そちは口を閉ぢて見物してをれ」
——一方。
国境方面から次々と入る注進やら、にはかに兵糧軍馬の動員で、洛中の騒動たるや、いまにも天地が覆(くつが)へるやうな混雑だつた。
その中を。
例の長髯を春風になびかせて、のそ/\と、相府の門へいま入つてゆくのは関羽の長軀であつた。
曹操に会つて、関羽は、
「日頃の御恩報じ、こんどの大会戦には、ぜひ此方(このはう)を、先手に加へてもらひたい」
と、志願して出た。
曹操は、欣(うれ)しさうな顔したが、すぐ何か、はつと思ひ当つたやうに、
「いや/\何のこの度ぐらゐな戦(いくさ)には、君の出馬をわ煩(わづら)はすにはあたらん。またの折に働いてもらはう。もつと重大な時でも来たら」
と、あわてゝ断つた。
餘りにもはつきりした断り方なので、関羽は返すことばもなく、悄々(すご/\)と帰つて行つた。
日ならずして、曹軍十五万は、白馬の野をひかへた西方の山に沿うて布陣し、曹操自身、指揮にあたつてゐた。
見わたすと、渺々(ベウ/\)の野に、顔良の精兵十万餘騎が凸(トツ)形(がた)にかたまつて、味方の右翼を突き崩し、野火が草を焼くやうに押(おし)つめてくる。
「宋憲々々。宋憲はゐるか」
曹操の呼ぶ声に、
「はつ、宋憲はこれに」
と馳け寄ると、曹操は何を見たか、いとも由々しく命じた。
「そちは以前、呂布の下にゐた猛将。いま敵の先鋒を見るに、冀州第一の名ある顔良がわが物顔に、ひとり戦場を暴れまはつてをる。討ち取つて来い。すぐに」
宋憲は欣然と、武者ぶるひして、馬を飛ばして行つたが、敵の顔良に近づくと、問答にも及ばずその影は、一抹の赤い霧となつてしまつた。
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次回 → 報恩(ほうおん)一隻手(いちせきしゆ)(一)(2025年3月17日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。