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前回はこちら → 破衣錦心(四)
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劉備玄徳は、毎日、無為な日に苦しんでゐた。
こゝ河北の首府、冀州城のうちに身をよせてから、賓客の礼遇をうけて、何不自由も無ささうだが、心は日夜楽しまない容子に見える。
何といつても居候の境遇である。それに、万里音信の術(すべ)も絶え、敗亡の孤を袁紹に託してからは、
「わが妻や子はどうなつたか。ふたりの義弟(おとと)は何処(いづこ)へ落ちたのか……」
思ひ悩むと、春日の長閑(のどか)な無事も悶々とたゞ長い日に思はれて、身も世もないこゝちがする。
「上(かみ)は、国へ奉じることもできず、下(しも)は、一家を保つこともできず、たゞこの身ばかり安泰にある恥かしさよ……」
ひとり面を蔽(おほ)つて、燈下に惨心を嚙む夜もあつた。
水は温(ぬる)み、春園の桃李は紅唇をほころばせてくる。
——噫(あゝ)、桃の咲くのを見れば、傷心はまた疼(うづ)く。桃園の義盟が思ひ出される。
「関羽々々、まだこの世にあるか?張飛はいづこにあるか?」
天空無心。
仰ぐと、一朶(イチダ)の春の雲が〔ふんわり〕と遊んでゐる。
玄徳は、仰視してゐた。
——と、いつのまにか、うしろへ来て、彼の肩をたゝいた者がある。袁紹であつた。
「御退屈であらう。かう春暖を催してくると」
「おゝこれは」
「其許(そこもと)にちと御相談があるが、忌憚ない意見を聞かしてもらへるかの」
「なんですか」
「実は、愛児の病も癒(い)え、山野の雪も解けはじめたから、多年の宿志たる上洛の兵を催して、一挙に曹操を平(たひら)げようと思ひ立つた。——ところが、臣下の田豊が、儂(み)を諫めていふには、今は攻めるよりも守る時期である。もつぱら国防に力をそゝぎ、兵馬を調練し農、産を内にすゝめて、坐りながらに待てば、許都の曹操は、こゝ二、三年のうちにかならず破綻をおこして自壊する。その時を待つて一挙に決するが利ぢや——と申すのだが」
「なるほど、安全な考へです。けれど田豊は学者ですから、どうしても机上の論になるのでせう。私ならさうしません」
「其許ならどうするか」
「時は今なりと信じます。なぜならば、なるほど曹操の兵馬は強堅ですし、彼の用兵奇策は侮り難いものですが、ここ漸く、彼も慢心を萌(きざ)し、朝野の人々にうとまれ、わけて先頃、国舅の董承以下、数百人を白日の都下に斬つたことなど、民心も離反してゐるにちがひありません。儒者の論に耳をとられて、今を晏如(アンジヨ)として過ごしてゐたら、悔(くい)を百年にのこすでせう」
「……むむ、さうか。さう云はれてみると、田豊はつねに学識ぶつて、そのくせ自家の庫富を汲々と守つてゐる性(たち)だ。彼はもう今の位置に事足りて、たゞ餘生の無事安穏を祈つてをるため、そんな保守的な論を儂(み)にもすゝめるのかもしれん」
ほかにも何か気に入らない事があつたのであらう。袁紹はその後、田豊を呼びつけて、彼の消極的な意見を痛罵した。
「これは誰か、主君をそゝのかした陰の者があるにちがひない」
田豊は直感したので、日頃の奉公はこゝとばかり、なほ面(おもて)を冒して反論を吐いた。——曹操の実力と信望は決して外から窺へるやうな微弱ではない。うかつに軍(いくさ)を出したら大敗を喫するであらうといふのである。
「汝は、河北の老職にありながら、わが河北の軍兵をさまで薄弱なものと侮るか」
袁紹は怒つて田豊を斬らうとまでしたが、玄徳やその他の人々がおし止(とゞ)めたので、
「不吉なやつだ!獄へ下せ」
と、厳命してしまつた。
些細な感情から、彼は大きな決心へ移つてゐた。まもなく河北四州へわたつて檄文は発しられ、告ぐるに曹操の悪罪十ケ条をあげ、「各々一族の兵馬(ヘイバ)弩弓(ドキウ)をすぐツて、白馬の戦場へ会せよ」と、令した。
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次回 → 白馬の野(二)(2025年3月15日(土)18時配信)