ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 大歩す臣道(四)
***************************************
或る日、ぶらりと、関羽のすがたが相府に見えた。
二夫人の内院が、建築も古いせいか、雨漏りして困るので修築してもらひたいと、役人へ頼みに来たのである。
「かしこまりました。さつそく丞相に伺つて、御修理しませう」
役人から満足な返事を聞いてゆたり/\帰りかけてゆく彼のすがたをちらと曹操が楼台から見かけて、
「あれは、羽将軍ではないか」
と、侍臣をやつて、呼びもどした。
「なにか御用ですかな」
関羽は〔うらゝか〕な面をもつてやがてそれへ来た。
曹操は手づから秘蔵の瑠璃杯をとつて簡単に一杯すゝめ、
「将軍の着てをられる緑の袍(ひたゝれ)は、緑錦(リヨクキン)の地色も見えないほど古びてをるな。陽もうらゝかになると餘りに襤褸(ぼろ)が目につく。これを着たまへ。——君の身丈にあはせて仕立てさせておいたから」
と、見事な一領の錦袍(キンパウ)をとつて彼に与へた。
「ほ。……これは豪奢な」
関羽はもらひ受けると、それを片手に抱へて帰つて行つた。ところがその後、何かの折に、曹操がふと関羽の襟元を見ると、さきに自分の与へた錦の袍は下に着て、上には依然として、虱(しらみ)の住んでゐさうな緑色のボロ袍をかさね着して澄ましこんでゐた。
「羽将軍、君は武人のくせに、えらい倹約家だな。なぜそんなに物惜みするのかね」
「え。どうしてです?特に贅沢したくもないが、また特に倹約してゐる覚えもありませんが」
「いや、やはりどこか、遠慮があるのだらう。曹操が賄(まかな)うてゐる以上は、何不自由もさせないつもりでをるのに——何も、新しい衣裳を惜んで古袍(ふるひたゝれ)をわざ/\上に重ね着してゐるにもあたるまい」
「あ。このことですか」
関羽は自分の袖を顧みて
「これはかつて、劉皇叔から拝領した恩衣です。どんなにボロになつても、朝夕(テウセキ)これを着、これを脱ぐたび、皇叔と親しく会ふやうで、欣(うれ)しい気もちを覚えます。故に、いま丞相から新(あらた)に錦繡の栄衣をいたゞいたものゝ、俄(にはか)に、この旧衣を捨てる気にはなれません」
と、答へた。
聞くと、曹操は、感に打たれたものゝ如く、心のうちで、
(あゝ麗(うるは)しい人だ。さても、忠義な人もあるものだ……)
と、沁々(しみ/゛\)、彼のすがたに見(み)惚(と)れてゐたが、折ふしそこへ、寮の二夫人に仕へてゐる者が迎へに来て、
「すぐお帰りください。おふた方が今、何事か嘆いて、羽将軍を呼んでいらつしやいます」
と、関羽へ告げると、
「え。何か起つたのか」
と、関羽は、それまで話してゐた曹操へ、あいさつもせず馳け去つてしまつた。
本来、こんな無礼をうけて、黙つてゐる曹操ではないが、曹操は置き捨てられたまゝ茫然と彼のあとを見送つて、
「……実に、純忠の士だ。衒(てら)ひもない。飾りもない。たゞ忠義の念、それしかない。……あゝ何とか、彼のやうな人物から、心服されたいものだが」
と、独りつぶやいてゐた。
曹操は、心ひそかに、自分と玄徳を比較してみた。そしてどの点でも、玄徳に劣る自分とは思はれなかつたが——たゞひとつ、自分の麾下に、関羽ほどな忠臣がゐるかゐないか——と、みづから問うてみると、
(それだけは劣る)
と、肯定せずにゐられなかつた。彼の意中のものは、いよいよ熱烈に、
「きつと関羽を、自分の徳によつて、心服させてみせる。自分の臣下とせずにはおかん」
と、人知れぬ誓ひに固められてゐた。
***************************************
次回 → 破衣錦心(二)(2025年3月10日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。