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帰洛して、ひとまづ軍務もかたづくと、こんどは、山積してゐる内外の政務が、彼の裁断を待つてゐる。
曹操は政治にたいしても、人いちばいの情熱をもつて当つた。許都を中心とする新文化は著(いちじ)るしく勃興してゐる。自己の指導ひとつで、庶民生活の様態が革(あらたま)つて来たり、産業、農事の改革から、目にみえて、一般の福利が増進されて来たりするのを見ると、
「政治こそ、人間の仕事のうちで、最高な理想を行ひうる大事業だ」
と信じて、年とるほど、政治に抱く興味と情熱はふかくなつてゐた。
この頃——
漸くそのはうも一段落して、身に小閑を得ると、彼はふと思ひ出して、
「さうだ——時に例の関羽は、都へ来てから、何して暮してをるか」
と、侍臣にたづねた。
それに答へて近衆(キンジユ)が、
「相府へはもちろんの事、街へも出た様子はありません。二夫人の御寮を護つて、番犬のやうに、門側の小屋に起居し、時々院の外を通る者が、のぞいて見るとよく読書してゐる姿を見うけるさうで」
と、彼の近況を語ると、曹操は打(うち)うなづいて心から同情を寄せるやうに、
「さもあらん、さもあらん。——英雄の心情、悶々たるものがあらう」
と、独りつぶやいてゐた。
その同情のあらはれた数日の後、曹操は急に関羽を参内の車に誘つた。
そして朝廷に伴つて、天子にまみえさせた。もとより陪臣なので、殿上にはのぼれない。階下に立つて拝謁したにとゞまるが、帝も関羽の名は疾(と)く御存じであるし、わけて御心のうちにある劉皇叔の義弟と聞かれて、特に御目をそゝがれ、
「たのもしき武人である。しかるべき官位を与へたがよい」
と、勅せられた。
曹操のはからひで、即座に、偏将軍(ヘンシヤウグン)に任じられた。関羽は終始黙黙と、勅恩を謝して退(さ)がつてきた。
まもなく曹操は、また、関羽のために、勅任の披露宴をかねて、祝賀の一夕を催し、諸大将や百官をよんで馳走した。
席上、関羽は、上賓の座にすゑられ、
「羽将軍のために」
と、曹操が、音頭をとつて乾杯したが、その晩も、関羽は黙々と飲んでゐるだけで、欣(うれ)しいのか迷惑なのか分らない顔してゐた。
宴が終ると、曹操はわざ/\近臣数名に、
「羽将軍をお送りしてゆけ」
と、いひつけ、綾羅(レウラ)百匹、錦繡(キンシウ)五十匹、金銀の器物、珠玉の什宝(ジフホウ)など、馬につけて贈らせた。
だが、関羽の眼には、珠玉も金銀も、瓦のやうなものらしい。そのひとつすら身には持たず、すべて二夫人の内院へ運ばせて、
「曹操がこんなものをよこしました」
と、みな献じてしまつた。
曹操は、後に、それと聞いて、
「いよ/\ゆかしい漢(をとこ)だ」
と、却(かへつ)て尊敬をいだいた。同時に、彼が関羽に対する士愛と敬愛は、異常なほど高まるばかりだつた。
三日に小宴、五日に大宴、といつたふうに饗応(キヤウオウ)の機会をつくつて、関羽を見ることを楽しみとしてゐた。
武将が良士を熱愛する度を云ひ現すことばとして此国の古くからの——馬にのれば金を与へ、馬を降れば銀を贈る——という喩(たと)へがあるが、曹操の態度は、それどころでなかつた。
都の内でも、選りすぐつた美女十人に、
「羽将軍を口説き落したら、おまへたちの望みは、何でもかなへてやる」
と、云ひふくませて、嬌艶(ケウエン)な媚(こび)を競はせたりした。関羽も美人は嫌ひでないとみえ、めづらしく大酔して十名の美姫にとり巻かれながら、
「これは、これは、花園の中にでもゐるやうだぞ。きれい/\。目が眩(まは)る——」
と、呵々(カヽ)大笑したが、帰るとすぐ、その十美人もみな二夫人の内院へ、侍女(こしもと)として献じてしまつた。
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次回 → 破衣錦心(一)(2025年3月8日(土)18時配信)