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前回はこちら → 大歩す臣道(二)
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降将とはいへ、さながら賓客の礼遇である。曹操は関羽を堂にむかへて、すこしも下風に見える容子はなく、さておもむろに対談しはじめた。
「けふは実に愉快な日だ。曹操にとつては、日頃の恋がかなつたやうな——また一挙に十州の城を手に入れたよりも大きな歓びを感じる。しかし羽将軍には、どう思はれるか」
「面目もない——その一言につきてをります」
「さりとは似あはしからぬことば、それは世のつねの敗軍の将のことで、羽将軍のごときは、名分ある降服といふべきで辱(はぢ)るどころではない。堂々臣道の真(まこと)を践まれてをる」
「さきに張遼を通じて、お約束を乞うた三つの箇条は、篤(トク)とおきゝ届けくだされた由、丞相の大恩としてふかく心に銘記します」
「案じ給ふな、武人と武人の約束は金鉄である。予も徳のうすい人間であるが、四海を感ぜしめんためには、誓つて違背なきことを改めて、もう一度云つておく」
「かたじけない。さるお誓ひのあるうへは、やがて故主玄徳の行方がわかり次第にこの関羽は直(たゞち)にお暇も乞はずに立ち去るものとお思ひください。火を踏み、水を越ゆるとも、その時には、あなたの側に停(とゞ)まつてをりますまい」
「はゝゝ、羽将軍はなほ、曹操の心事をお疑ひとみえるな。御念には及ばん……」
曹操は云つたが、笑ひにまぎらした中に、蔽(おほ)ひ得ない感情が圧しつぶされてゐた。その苦味を打(うち)消すやうに、
「さあ、あちらの閣に、盛宴のしたくができてをる。わが幕僚たちともお紹介(ひきあ)はせしよう。来給へ」
と、先に立つて、酒宴のはうへ導いた。
万歳の杯(さかづき)をあげて、諸将もみな酔つたが、平常でも朱面の関羽が、たれの顔よりも朱かつた。
酔に乗じて、曹操は、
「羽将軍、君が会はんと願つてゐるひとは、おそらく乱軍のなかでもう屍になつてゐるかも知れんな。むしろ霊を祭つて、ひそかに弔つてあげたはうがよいだらう」
と、さゝやいた。
関羽は、酔ふとよけい、酒の脂で真つ黒な艶(つや)をみせる長髯を撫しながら、
「それと分つた時でも、それがしは屹度(キツト)、丞相の側に居なくなるでせう」
と、髯の中で笑つた。
「どうしてか。玄徳が討死にしてしまつたら、もう君の行く先はあるまい」
「いや、丞相」
と、幅のひろい胸を向け直して
「——この髯が、鴉(からす)になつて故主の屍(かばね)を探しに飛んで行きませう」
と、いつた。
冗談など云ふまいと思つてゐた関羽が、計らずも、戯れたので、曹操は手をたゝいて、
「さうか。あはゝゝ、なるほど、その髯が、みんな翼になつたら、十羽ぐらゐな鴉にならうな」
と、哄笑した。
かくてまづ、徐州地方に対する曹操の一事業は済み、次の日、かれの中軍は早くも凱旋の途につゐた。
関羽は、主君の二夫人を車に奉じ、特に、前から自分の部下であつた士卒二十餘人と共に、車をまもつて、寸時も離れることなく、
許都へのぼつた。
許都へ来ては、諸将は各々の営寨(エイサイ)にわかれ帰つて、平常の服務につき、関羽は、洛内(らくない)に一館をもらつて、二夫人をそこへ住まはせた。
一館の第宅(テイタク)を、内外両院にわけて、深院には夫人たちを奉じ、外院には士卒と自分などが住まひ、両門のわきには、日夜二十餘人の士卒を交代で立たせた。
そして関羽も、時々、無事閑日の身を、そこの門番小屋の中において、書物など読みながら、手不足な番兵の代りなど勤めてゐる日もあつた。
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次回 → 大歩す臣道(四)(2025年3月7日(金)18時配信)