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一夫多妻を伝統の風習としてゐるこの民族の中では、玄徳の室など、至極さびしいはうであつた。
甘夫人は、靡夫人(ママ)より若い。沛県のひとで、さう美人といふほどでもない。単に、清楚な婦人である。
美人のおもかげは、むしろ年上の靡夫人(ママ)のはうに偲ばれる。
それも道理で、もう女の三十路(みそぢ)をこえてゐるが、青年玄徳に、はじめて恋ごゝろを知らしめた女性なのである。
実に今を去る十何年か前。
まだ玄徳が、沓(くつ)を売り蓆(むしろ)を織つてゐた逆境の時代——黄河のほとりにたつて、洛陽船を待ち、母のみやげにと茶を求めて帰る旅の途中、曠野でめぐり逢つた白芙蓉(ハクフヨウ)といふ佳人が、いまの靡夫人(ママ)であつた。
五臺山の劉恢の家に養はれて、久しく時を待つてゐた彼女は、その後玄徳に迎へられて、室に侍したものであつた。
一子がある。六歳になる。
けれど病弱だつた。
今日のやうな境遇になつてみると、むしろ平和な日に安心して逝つたので、心のこりのない気がするものは、玄徳の母であつた。
長命したはうである。
それに、玄徳としては、まだ不足だつたが、老母としては、充分に安心して逝つたであらうほど、子が世に出たのも見て逝つた。
その老母は、徐州の城にゐたころ、世を去つたのである。
——で、二夫人と、病弱な一児のほかは、奴婢、召使たちしかゐない。
玄徳も何(ど)んなにか、他国の空でこの二夫人と、一児の身を、案じ暮してゐることだらうか。二夫人が、玄徳を慕つて、すでに敵の擒人(とりこ)となつてゐる境遇も思はず、今にでもすぐ会へるやうに思つてゐるのは男と男との戦ひの世界などには〔うとい〕深苑(シンヱン)の女性として、無理もないことであつた。
「……その儀は、決して御心配にはおよびませぬ。降服と申しても、たゞの降服ではありません。三つの条件を、曹操とかたく約してのことです。——もし御主君の居所がわかつたときは、暇(いとま)も乞はず、すぐ劉皇叔の許(もと)へ馳せ参りますぞと——約束の一条に加へてありまする。ですから、その折には、関羽がお供いたして、かならず御一同さまと皇叔とを、御対面おさせ申しませうほどに、凝(じつ)と、それまでは、敵地での御辛抱をおねがひ申しあげまする」
彼の至誠に、二夫人は、
「よいやうに……たゞそちのみを、頼みに思ひますぞ」
と、涙にくれて云ふばかりだつた。
関羽はやがて、残兵十騎ばかりを従へて、悠々と、曹操の陣門を訪れた。
曹操は、自身轅門(エンモン)まで出て、彼を迎へた。
あまりの破格に、関羽があわてて地に拝伏すると、曹操もまた、礼を施した。
関羽は、いつまでも地から起たず、
「それでは御挨拶のいたしやうがありません」
と、云つた。
「将軍、なにを窮するのか」
曹操が、気色うるはしく訊ねると、
「すでに、この関羽は、あなたから不殺の恩をうけました。なんで慇懃な御答礼をうけられませう」
「将軍に害を加へなかつたのは将軍の純忠に依ることです。また相互の礼は予は漢の臣、おん身も漢の臣、官位はちがつてもその志操に対する礼である。御謙譲には及ばんことだ。いざ予の帷幕へ来給へ」
曹操は、先に大歩して、案内に立つ。
通つてみるとすでに一堂には花卓(クワタク)玉盞(ギヨクサン)をとゝのへて盛宴の支度ができてゐる。
そして中堂を繞(めぐ)つて整列してゐた曹操の親衛軍は関羽のすがたを見ると一斉に迎賓の礼を執つた。
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次回 → 大歩す臣道(三)(2025年3月6日(木)18時配信)