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一羽の猛鷲(マウシウ)が、翼ををさめて、山上の岩石から凝(じつ)と、天地の雲霧をながめてゐる。——
遠方から望むと、孤将、関羽のすがたはそんなふうに見えた。
「お待たせいたしました」
張遼はふたゝびそこへ息をきつて登つて来た。そして自分の歓びをそのまゝ、
「関羽どの、歓ばれよ。貴公の申(まうし)出られた三つの条件は、悉(こと/゛\)く丞相の御快諾を得るところとなつた。さあ、拙者と同道して、山を降りたまへ」
と、告げた。
すると、関羽は、
「あいや、なほ少々、御猶豫を乞ひたい。さきに申した条件は、関羽一個の意にすぎない。この関羽としては、遂に、さうするしか道はないと覚悟したが、なほ二夫人のお心のほどは量られぬ……」
「それまで御斟酌にはおよぶまいに」
「いや/\さうでない。お力のない女性方とはいへ、御主君に代る御主筋——一応はおふた方の御意をも仰がずには、曹操の陣門へ駒をつなぐわけには参らぬ。それがし、これより城中に入つて、親しく二夫人の御前にまみえ、事の次第をお告げして、御承諾をうけて参るほどに、まづ曹操から下知をくだして、麓の軍勢を、この上より三十里外に退(ひ)かせ給へ」
「では、その後(あと)で、かならず丞相の陣門へ、降服して参られるか」
「きつと、出向く」
「しからば、後刻」
と、武士と武士のことばをつがへて、張遼は速(すみや)かに立ち去つた。
曹操は、やがて張遼から、その要求を聞いて、実(げ)にもとうなづき、すぐ、
「諸軍、囲みを解いて、速かに三十里外に退くべし」
と、発令した。
謀将荀彧はおどろいて、
「まだ関羽の心底はよくわかりません。もし、変を生じたらどうしますか」
と、伝令を止めて、曹操に諫言した。
曹操は、快然一笑して、
「関羽がもし約束を詐(いつは)るやうな人物ならば、なんで予がこれほど寛大な条件を容れよう。——またそんな人間ならば、逃げ去つても惜しくない」
と云つて、ためらひなく全軍を遠く開かせた。
小手をかざして山上から兵霞(ヘイカ)の退(ひ)くのをながめてゐた関羽は、やをら黒鹿毛を曳いて麓にくだり、無人の野(ヤ)を疾駆して、間もなく下邳城に着き、城内民安穏を見とゞけてから城の奥へかくれた。
深院の後閣、哀禽の音(ね)が昼を一しほ寂(セキ)としてゐた。
番兵が秘扉(ヒヒ)をひらいて、彼を簾外(レングワイ)へいざなふと、玄徳の妻室靡夫人(ビフジン)(ママ)と、側室の甘夫人(カンフジン)は、
「オヽ、関将軍か」
と、幼児の手をひいてまろび出て来た。
「和子さまにも、おふた方にも、おつゝがなくお在(は)せられましたか」
関羽は、階を隔てゝ平伏し、二夫人の無事をながめた安心やら……交々(こも/゛\)な感慨につゝまれて、しばらくは面(おもて)も上げなかつた。
靡夫人は涙ながら、
「夕、落城となつて、死を決めてゐましたが、思ひのほか、殺されもせず、このとほり曹操から手厚く守られてゐます。……将軍、お身もよう無事でもどつてくれましたね。どうか生命をいとしんで、皇叔のお行方をたずねて下さい」
と、甘夫人も共々、袖を面(おもて)にあてゝ、玄徳の生死を案じ、この先、どうしていゝか、それすらまつたく見失つてゐた。
一時、曹操に降つて、主君のお行方をさがすつもりで——と関羽が交渉の仔細を告げると二夫人とも、泣き腫れた眼をみはつて、
「でも、曹操に随身してしまつたら、もう皇叔の居どころが分つても、お側へは行かれますまい。関将軍とておなじ事、その時はどうなさるおつもりですか」
と、さすがにやゝ気色(ケシキ)ばんで難詰(なじ)つた。
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次回 → 大歩(たいほ)す臣道(二)(2025年3月5日(水)18時配信)