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前回はこちら → 恋の曹操(二)
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【前回迄の梗概】
◇…後漢末の乱世に乗じて各地に割拠した群雄は、河北の袁紹、江東の孫策、徐州の玄徳、丞相曹操等。
◇…特に献帝を擁して許都による曹操は旭日の勢ひで、自己の野望を着々と成就して行つた。皇舅董承、侍医吉平等の討曹の計を機に一族数千名を斬殺、都下を完全に自己の勢力中に収め更にその鉾先を徐州の玄徳に向けた。
◇…小沛の城にあり、二十万の敵軍に対した玄徳は張飛の奇策も失敗、命から/゛\河北冀州の袁紹に助けを求める。一方勢に乗つた曹操軍は、関羽の守る下邳の城に殺到、その沈勇を惜しむ曹操はこれを生擒りしようと計る。
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手をかざして望むと夏侯惇、夏侯淵の二軍は、鳥雲の陣をしいて旌旗(セイキ)しづかに野に沈んでゐた。
——と見るうち、甲盍(カフカイ)さんらんたる隻眼の大将が、馬をすゝめて関羽のまへに躍りかけ、
「やあ、髯長(ひげなが)の村夫子、なんじ何とて柄にもなき威容を作り、武門のちまたに横行なすか。すでに不逞の頭目玄徳も無頼漢の張飛もわが丞相の威武に気をうしなひ、風をくらつて退散いたしたのに、なんぢまだ便々と下邳にたて籠つて何んするものぞ。——早々(はや/\)故郷(ふるさと)へ立ち帰つて、村童の濞汁(はなじる)をふいてをるか、髯(ひげ)の虱(しらみ)でも取つてをれ」
と、舌をふるつて悪罵した。
関羽は、沈勇そのものの眉に口を緘(カン)し、爛(ラン)たる眼(まなこ)を向けてゐたが、
「おのれ、さう云ふ者は曹操の部下夏侯惇であるな」
やはり彼にも感情はあつた。心では烈火のごとく怒つてゐたものとみえる。——そのすがたに〔ぶん〕と風を生じたかと思ふと、漆艶(うるしつや)の黒鹿毛と、陽にきらめく偃月の青龍刀は、
「うごくな!片眼つ」
と、ひと声吼えてをどり蒐(かゝ)つて来た。
もとより計る気の夏侯惇、善戦はしながらも、逃げては奔り、返しては罵りちらした。
関羽は大いに怒つて部下三千を叱咤し、自分も二十里ばかり追(おひ)かけた。
しかし彼の獅子奮迅ぶりに、味方もつゞき限(き)れなかつた。
関羽は気がついて、
「ちと、深入(ふかいり)」
急に引つ返しかけたが、それと共に、左に敵の徐晃、右には許褚の伏軍がいちどに起つて、彼の退路をふさいだ。
蝗(いなご)の飛ぶやうな唸りは百張の弩(いしゆみ)が弦(つる)を切つて放つたのであつた。
さすがの関羽も、その矢道は通りきれない。道を更へんと駒を返すとそこからもわつと伏兵の旋風(つむじ)が立つ。
かうして彼は次第に、気の長い猛獣狩りの土蛮が豹を柵へ追ひこむやうに追ひつめられて、つひに曹操の大軍のうちに完封された。
日もはや暮れて野は暗い。彼が逃げあがつたのはひくい小山の上だつた。夜に入ると、下邳のはうに、焰々(エン/\)たる猛火が空をこがし初めた。
さきに城内へまぎれこんだ反間の埋兵が内から火を放つて夏侯惇の人数を入れ、苦もなく、さしもの難攻不落、下邳の城を曹操の手へ渡してしまつたものであつた。
「計られたり、計られたり。このうへは、なにの面目あつて主君にまみえようぞ。さうだ……夜明けと共に」
彼は、討死と決心した。
そして、明日をさいごの働きに、せめては少し身を休めておかう。馬にも草を喰はせておかう——さう心しづかに用意して、あわてもせず、夜の白むのを待つてゐた。
——朝露がしつとりと降りる。東雲(しのゝめ)は紅(くれなゐ)をみなぎらして来た。手をかざして小山のふもとを見れば、長蛇が山を巻いたやうに、無数の陣地々々をつないで霞も黒いばかりな大軍。
「もの/\しや……」
関羽は、苦笑した。
山上の一石に、ゆつたり腰をすゑ甲(かぶと)よろひの革紐などを締め、草の葉露を舐めてやをら立ちかけた。
すると、そこへ。
麓のはうから誰か登つて来た。
関羽は、ひとみを向けた。
自分の名を呼びかけてくるのである。
「……何者?」
と、疑はしげに待ちかまへてゐると、やがて近く寄つてきたのは口に鞭(むち)を咥(くは)へ頰に微笑をたゝえた張遼であつた。
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次回 → 恋の曹操(四)(2025年3月1日(土)18時配信)