ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 玄徳冀州へ奔る(三)
***************************************
小沛、徐州の二城を、一戦のまに占領した曹操の勢ひは、旭日のごときものがあつた。
徐州には、玄徳麾下の簡雍、靡竺(ビジク)(ママ)のふたりが守つてゐたが、城をすてゝどこかへ落ち去つてしまい、あとには陳大夫、陳登の父子(おやこ)が残つてゐて、内から城門をひらき、曹操の軍勢を迎へ入れたものであつた。
曹操は、陳父子に対して、
「さきにはわが恩爵をうけ、後には玄徳に随身し、今はまた門をひらいて予を迎ふ。——咎(とが)めれば咎める罪状は成り立つが、もし力をつくして、領内の百姓を宣撫するなら、前日の罪はゆるしてやらう」
と、云つた。
陳父子は慴伏(セフフク)して、
「違背なく仕りますれば」
と、ひたすら彼の寛仁を仰ぎ、その日から力を城内民の鎮撫にそそいで、治安の実績をあらはした。
ふかく玄徳になついてゐたので、一時は不安に駆(か)られて躁(さは)いでゐた城内民も曹操の政令と宣撫にやうやく落着いて、常態に復しかけてきた。
「まづ、徐州はこれでいゝ」
曹操の考へは次の作戦に移つてゐた。
戦争と政治は、併行する。二本の足を、交互に運ぶやうなものである。
「——残るは下邳の一城」
と、彼はもうその地方まで呑んでゐる気概であつたが、大事をとつて一応、事情に明るい陳登に下邳の内状をたづねてみた。
「下邳の城は丞相も御承知の関羽雲長が、守り固めてをります。——かねて玄徳はかゝる場合を案じてか、二夫人と老幼のものを、関羽にあづけ、丞相の軍が発向する前に、疾く下邳のはうへ移してゐたものであります」
陳登はなほ云ひ足して、
「なぜ玄徳が妻子を下邳へうつしたかといへば、申すまでもなく、曽(かつ)ては猛将呂布がたて籠つて、さんざんに丞相の軍をなやましたことのある難攻不落な地ですからそれでこのたびも、特に、関羽をゑらんで大事な家族を託したものと思はれます」と、語つた。
曹操は往年の戦を思ひ出しながら、
「なにさま、予にとつて、下邳は宿縁あさからぬ古戦場だ。——しかし呂布を攻めた時とちがつて、このたびは長びくことは禁物である。なぜならば袁紹といふものが、すでに大軍を北にうごかしてゐるからだ。——作戦は一に急を要する」
荀彧をかへりみて、急に下邳を陥す名案はないかとたづねた。
荀彧は、しばらく、半眼のまゝ口をとぢてゐたが、
「関羽を城中においては、百たび攻めても陥ちますまい。策の妙諦は、たゞいかにして、関羽を城外へおびき出すかにありませう」
と、云つた。
「それには?」
と、たゝみかけて、曹操が問ふと又、
「押(おし)つめて、わざと弛(ゆる)み、敵を驕(おご)らせて味方は潰走して見せる。その間、ひそかに大軍をまはし、中道を遮断すれば、関羽は十方に道を失ひ、孤旗を支(さゝ)へて悲戦の下に立つしかありません」
「なるほど、関羽さへ擒人(とりこ)にすれば、不落の城も、不落ではないからな」
曹操は、荀彧の策を採つて、あらまし用兵の方向をさだめ、議が終ると、かう自分の意中をかたはらに告げた。
「実をいふと、予は遠い以前から、関羽の男〔ぶり〕に恋してをる。沈剛内勇、まことに寛濶(クワンクワツ)な男で、しかも武藝は三軍に冠たるものがある。——こんどの戦こそ、日頃の恋を遂げるにはまたとない好機。何とかして彼を麾下に加へたいものである。怪我なく生け捕つて、許都のみやげに連れもどりたい。——各々、予が意を酌んで、充分に策を練つてくれよ」
***************************************
次回 → 恋の曹操(二)(2025年2月27日(木)18時配信)