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前回はこちら → 玄徳冀州へ奔る(二)
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玄徳は道を変へて、夜の明けるまで馳けつゞけた。すでに小沛の城は敵手に陥(おと)されてしまつたので
「このうへは徐州へ」
と、急いだのである。
ところがその徐州城へ近づいてみると、暁天に翻つてゐる楼頭の旗はすべて曹操軍の旗だつたので
「——これは?」
と、玄徳はしばし行く道も失つたやうに、茫然自失してゐた。
陽ののぼるにつれて、四顧に入る山河を見まはすと、濛々と、どこも彼処(かしこ)も煙がたちこめてゐた。そしてそこには必ず曹操の人馬が蟠(はびこ)つてゐた。
「あゝ過(あやま)つた。——智者でさへ智に誇れば智に溺れるといふものを図にのつた張飛ごときものゝ才策を〔うか〕と用ひて」
玄徳は臍(ほぞ)を嚙んだ——痛烈にいま悔(くい)を眉に滲(にじ)ませてゐる——が彼はすぐその非を知つた。
「わしは将だ。彼は部下。将器たるわしの不才が招いた過ちだ」
さしづめ玄徳は、落ちてゆく道を求めなければならない。
いかにしてこの危地を脱するか?——またどこへさして落ちて行くか?
当面の問題に、彼はすぐ頭を向け更(か)へた。
「さうだ、ひとまづ冀州へ行つて、袁紹に計らう」
いつぞや使(つかひ)した孫乾に言(こと)伝(づ)けして——もし曹操に敗れたら冀州へ来給へ、悪いやうにはせぬから——と云つてゐたといふ袁紹の好意をふといま玄徳は思ひ出してゐた。
途中、ゆうべから狙(つ)けまはしてゐる楽進や夏侯惇の軍勢に、さんざん追ひまはされて、彼も馬も、土に〔のめる〕ばかりな苦しみに喘(あえ)ぎつゝも、やうやく死地から脱(のが)れたのは、翌日、青州の地を踏んでからであつた。
それからも、野に臥し、山に寝ね、野鼠(ヤソ)の肉をくらひ、草の根を咬(か)み、あらゆる危険と辛酸に試されたあげく、やつと青州府の城下にたどりついた。
城主袁譚(ヱンタン)は、袁紹の嫡男であつたから、
「かねて父から聞いてゐます。もう御心配には及ばぬ」
と、旅舎を与へられ、一方、彼の手から駅伝の使(つかひ)は飛んで、父袁紹のところへ、
徐州、小沛は、はや陥落す。
玄徳、妻子にもはなれ、身を
もつて、青州まで落ちまゐる。
いかゞ処置ゐたすべきや。
と、さしづを仰いでゐた。
「かねての約束、たがふ可(べ)からず——」
と、袁紹はたゞちに一軍を迎へに差向けて、玄徳の身を引取つた。
しかも、冀州城外三十里の地——平原といふところまで、袁紹自身、車馬をつらねて出迎へに出てゐた。
よほどな優遇である。
やがて、城門にかゝると、玄徳は馬を降りて、
「流亡(ルバウ)の敗将が、何の功によつて、今日このやうな礼遇をいたゞくのでせうか。あまりな過分です」
と、地に拝伏して、それから先は下馬して歩いた。
城内に入ると、袁紹はあらためて、彼に対面し、過ぐる日、孫乾の使(つかひ)をむなしく帰したことを、かう云ひわけした。
「子煩悩と嗤(わら)はれようが、子どもの病気はかなはんものでな。あの前後、わしも心身つかれ果てゝゐたので、つひにお救ひにも行けなかつた。しかしこゝは河北数州の府、大船にのつたお心で、幾年でもおいでになられるがよい」
「まことに面目もありませぬ。一族を亡ぼし、妻子をすて、恥もかへりみず、孤窮、門下に身を寄せて来たそれがし、過分な御好遇は却(かへつ)ていたみいります。たゞ何分の御寛仁を……」
玄徳は肩身がせまい。ひたすら謙虚に、身を低く、頼むばかりであつた。
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次回 → 恋の曹操(一)(2025年2月26日(水)18時配信)