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小沛の城は、いまや風前の燈火(ともしび)にも似てゐる。
そこに在る玄徳は、痛心を抱いて、対策に迫られてゐた。
孫乾は冀州から帰つてきたものの、その報告は何の恃(たの)みにもならないものである。彼は明(あきら)かに周章してゐた。
「家兄(このかみ)。さう鬱(ふさ)いでゐては、名智も策も出やしません。味方の士気にも影響する。同じ戦ふなら、もつと陽気にやらうぢやありませんか」
「お、張飛か。そちのことばも尤(もつと)もだが、いかんせんこの小城、敵は二十万と聞えてゐる」
「二十万だらうが、百万だらうが、憂ひとするには足りません。なぜならば、曹操は短気なので、兵馬はみな許都からの長途を、休むひまなく馳け下つて来たにちがひありません。陣地に着いても四、五日ほどは、疲労しきつてゐて物の用に立ちますまい」
「——が、いずれ敵は、長陣を覚悟のうへで、十重(とへ)二十重(はたへ)にこの城をとり巻かう」
「ですから、その用意の調(とゝの)はぬうち——また長途のつかれも癒えぬうちに——それがしが部下の猛卒をひツさげて奇襲を行ひ、まづ敵の出鼻に、大打撃を加へ、然(しか)るのち下邳城の関羽と掎角(キカク)の形をとつて、一縮一伸、呼応して敵に変化のいとまなからしめる時は、彼の大軍は、却(かへ)つて、彼の弱点となり、やがて破綻を来たすことは明(あきら)かではありませんか」
張飛の言を聞いてゐるとまつたく陽気になつてくる。彼は憂鬱を知らない男だし、玄徳は餘りに石橋をたゝいて渡る主義で、憂ひが多すぎる。
「豎子(ジユシ)曹操。なにほどのことやあらんです。拙者におまかせなさい。いまの妙策はいけませんか」
「いや、感心した。そちといふ者は、武勇一点張で変哲もない男かと多年思つてゐたが、先ごろは、良計を用ひて、劉岱を生捕つたし、いま又、兵法にかなつた妙計をわしへ告げをる。——よからう、汝の存分に、曹操の先鋒を討ち砕け」
肚(はら)をきめれば、大腹な玄徳である。それに近ごろ張飛をすこし見直してゐたところなので、直(たゞち)に彼の策をゆるした。
張飛は、手具脛(てぐすね)ひいて、
「いざ来い。眼にもの見せてくれん」
と、用意おさ/\怠りなく、奇襲の機をうかゞつてゐた。
敵二十万の大軍は、まもなく近近と小沛の県界まで押して来た。
ところがその日、一陣の狂風が吹いて、中軍の牙旗がポキツと折れた。
あまり御幣(ごへい)はかつがない曹操だが、着陣したその日なので、
「はてな?」
と、しばし馬上に瞑目し、独り吉凶を占うてゐたが、なほ試みに、
「これは吉兆か凶兆か」
と、諸将をかへりみて訊ねた。
荀彧がすゝみ出て、
「風はどう向いて吹きましたか」
「東南(たつみ)からであつた」
「折れた旗の色は」
「真紅の旗」
「紅の旗が、東南風(たつみかぜ)で折れましたか。さらば御懸念にはおよびません。是(これ)、兵法の天象篇(テンシヤウヘン)占風訣(センフウケツ)の一項に見えるとほり、敵に夜陰のうごきある兆(しるし)です」
と、彼は云つた。
先鋒の毛玠(モウカイ)も、わざ/\駒を返して来て、同じ意見を曹操に達した。
「——紅旗、東南風に仆(たふ)るゝは、夜襲の敵意なりと、むかしから兵家は云ひ伝へてゐます。御用心あるやうに」
曹操は、天に謝して、
「われを警(いまし)めたまふは、天、われを扶(たす)くるのである。怠つてはなるまい。九陣にわかれ、八面に兵を埋伏し、各々、英気をふくんで、夜陰を待ちかまへろ」
と、必殺の捕捉陣をしいて、陽の没するのを合図に、全軍くろぐろと影を沈めてゐた。
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次回 → 玄徳冀州へ奔る(二)(2025年2月24日(月)18時配信)
なお、日曜日については夕刊が休刊のため、配信はありません。