ターミナルページはこちら(外部サービス「note」にリンク)
前回はこちら → 小児病患者(一)
***************************************
孫乾(ソンケン)は、冀州へ着いた。
まづ袁家の重臣田豊を訪れて、彼の斡旋のもとに、次の日、大城へ導かれて、袁紹に謁見した。
どうしたのか、袁紹はいたく憔悴してゐて、衣冠もたゞしてゐない。
田豊は、をどろいて、
「どうなさいましたか?」
と、怪しんで問うた。
袁紹は、ことばにも力がなく、
「わしはよく/\子ども運がわるいとみえる。児女はたくさんあるがみな出来がよくない。ひとり第五男だけは、まだ幼いが、天性の光りがみえ、末たのもしく思つてゐたところ、何たることぢや。この頃また疥瘡(カイサウ)を病んで、命(メイ)もあやふい容体になつてしまうた。……財宝万貨、なに一つ不足といふものはないが、老(おい)の寿命と子孫ばかりは、どうにもならぬものではある」
他国の使者が、佇立(チヨリツ)してゐるのも忘れて、袁紹は、たゞ子の病(やまひ)を嘆いてばかりゐた。
田豊も、なぐさめかねて、
「それはどうも……」
と、しばらく用件を云ひ出しかねてゐたが、やがて、一転の機を話中につかんで、
「時にいま絶好な便りを手にしました。それはこれにをる劉玄徳の臣が、早馬で告げに来たことですが」
と、袁紹の英気を励まし、
「——曹操はいま大軍を率ゐて、徐州へ向つてゐるとあります。必定、都下は手薄とならざるを得ません。わが君、この時に起たれて、天機に応じ、虚をついて、一せいに都へ攻め入り給はゞ、必勝は火を睹(み)るよりも明(あきら)かであり、上(かみ)は天子を扶(たす)け、下は万民の大幸と、謳歌されるでありませう」
「……ほう」
と、袁紹の返辞は、依然、生ぬるい。どこか呆気(はうけ)た面持(おももち)しか見えない。
田豊は、なほ説いて、
「諺(ことわざ)にも、天の与ふるを取らざれば、かへつて天の咎めを受く、と云ひます。いかゞです。天下はいま、進んでわが君の掌中にころげ込まうとしてゐますが」
「いや、それもよいが」
袁紹は重たげに、頭を振つてそれに答へた。
「——何となくいまは心がすゝまん。わしの心が楽しまねば、自然戦つても利があるまい」
「どうしてですか」
「五男の病気が気がゝりでの。……ゆうべも泣いてばかりゐて、ひと晩中、よう睡りもせなんだ」
「お子さまの御病気は、医者と女にまかせておかれたら何(ど)うですか」
「珠(たま)を失つてから悔いてもおよぶまい。そちはわが児(こ)が瀕死の日でも、狩猟(かり)の友が誘ひに来たら共に家を出るか」
「……」
田豊は、黙つてしまつた。
熱心に支持してくれた田豊の好意はふかく心に謝してゐたが、孫乾もつら/\袁紹の人物とけふの容子をながめて、
(……これ以上強ひるのは無益)
と、諦めてしまつた。
で、田豊の眼へ目顔で合図しながら、退出しやうとすると、袁紹もすこし悪い気がしたとみえて、
「立(たち)帰つたら劉玄徳へはよろしく伝へてくれい。そしてもし、曹操の大軍に支へ難く、徐州も捨てるのほか無いやうな場合になつたらいつでも我が冀州へ頼つて参られるがよいとな。……呉々(くれ/゛\)、悪く思はないやうに」
と、重ねて云つた。
城門を退出してから、田豊は足ずりして、
「惜(をし)い!実に惜い。小児の病気ぐらいに恋々として、遂に天機を見のがすとは」
と、長嘆した。
孫乾は、馬を求めて、
「いやどうも、いろ/\お世話になりました。いづれ又、そのうちに」
と、半日の猶豫もしてゐられない身、すぐ鞭を打つて徐州へ引つ返した。
**************************************
次回 → 玄徳冀州へ奔る(一)(2025年2月22日(土)18時配信)