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粛正の嵐、血の清掃もひとまづ済んだ。腥風(セイフウ)都下を払つて、ほつとしたのは、曹操よりも、民衆であつたらう。
曹操は、何事もなかつたやうな顔をしてゐる。かれの胸には、もう昨日の苦味(くみ)も酸味(すみ)もない。明日への百計に耽(ふけ)るばかりだつた。
「荀彧。——まだ片づかんものが残つてをるな。しかも大物だ」
「西涼の馬騰と、徐州の玄徳でせう」
「それだ。両名とも、董承の義盟に連判し、予に対して、叛心歴々たるもの共。何とかせねばなるまい」
「もとより捨(すて)おかれません」
「まづ、そちの賢策を聞かう」
「由来、西涼の州兵は、猛気さかんです。軽々しくは当れません。玄徳もまた徐州の要地をしめ、下胚(カハイ)(ママ)、小沛の城と掎角(キカク)の備へをもち、これも小勢力ながら、簡単に征伐はできないかと思はれまする」
「さう難しく考へたら、いづれの敵にせよ、みな相当なものだから、どつちへも手は出まい」
「河北の袁紹なくんば憂(うれひ)はありませんが、袁紹の国境軍は、過日来、官渡のあたりに、いよ/\増強されてをるやうです。丞相の大敵は、何といつても彼で、彼こそ今、亟相と天下を争ふものでせう」
「だから、その手足たる玄徳を、先に徐州へ攻めやうと思ふのだが」
「いやいや、滅多に今、この許都を手薄にはできません。それよりは、甘言をもつて、まづ西涼の馬騰を都へよびよせ、あざむいて是(これ)を殺し、次に玄徳へも、おもむろに交術を施して、その鋭気を削(そ)ぎ、一面、流言の法を行つて、彼と袁紹とのあひだを猜疑(サイギ)せしめるを以て、万全の計とわたくしは考へます」
「ちと悠長すぎる。計(はかり)ごと遅々なれば計ごと変ず。そのまに、また四囲の情勢が変つて来よう。——それに応じてまた中途から計ごとを更(か)へたりするのは、下の下策ではないか」
曹操はどこ迄(まで)も、玄徳をさきに討たうと望んでゐるらしい。玄徳に対しては、一頃、熱愛を傾けて交はつてゐたゞけに、反動的な感情がいまは痞(こ)みあげてゐる。国事に関する大策にでも、どうしても幾分かの感情を交へないではゐられないのは、曹操の特質であつた。
謀議の室を閉ぢて、ふたりがかう議してゐるところへ、ちやうど郭嘉が入つて来た。郭嘉もまた曹操が信頼してゐる帷幕のひとりである。
「いゝところへ来た。其方(そのはう)はどう思ふか」
郭嘉は即答した。
「それは一気に玄徳を討伐してしまふに限ります。なぜなら、玄徳はまだ徐州を治めても、歳月(としつき)は浅いので、州民の心は摑きれてをらない。また袁紹は気勢ばかりあげてゐるが、部下の田豊、審配、許攸(キヨシウ)(ママ)などの良将もみな一致を缺き、加ふるに、袁紹自身の優柔不断、なんで神速の兵をうごかせませうや」
その説は、自分の志望と合致したので、曹操はたちどころに決心して、軍監、参謀、各司令、糧食、輸送などの各司令を一堂によび集め、
「兵二十万をとゝのへ、五部隊にわかち、三道より徐州へ攻(せめ)下れ」
と、軍令を発した。
諸大将の兵馬は忽ち徐州へむかつた。——早くもこの事は電波(ママ)して徐州へ伝はつてゆく。
まつさきに、それを早耳に入れたものは孫乾(ソンケン)であつた。
下邳の城に在る関羽のところへ急を告げ、その脚ですぐ玄徳のはうへ馬を飛ばした。
玄徳は、小沛の城にゐる。彼の驚愕もひと通りでない。
「血詔の秘事露顕して董国舅以下のあへない御最期。いづれはかくあらうかとも覚悟してゐたが……」
「袁紹へ、書簡をおしたゝめなさいまし。それを携へて、河北の救援を求めにまゐりませう。それしか方法はありません」
孫乾は、玄徳の一書をうけて、ふたゝび駒の背に伏し、河北へむかつて、夜を日についで急いでゐた。
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次回 → 小児病患者(二)(2025年2月21日(金)18時配信)